言葉
このコミュ二ケーションを妨げるもの

 つい最近のことであるが、ふとした機会に息子のガール・フレンドからかかって来た電話に出たことがある。

「××君、いますかあ・・・」

 ながいこと、若い女の子の声に接したことのなかった私は電話のなかのその声をきいて、おや、と思った。その声は、つまり私にとっては、いままで余り接したことのないすこぶる新種の声にきこえたからである。

 ところが、その新種の声に、私はそれから二度ばかり続けて接する機会があった。一回はある会社の新入女子社員らしい 女の子から所用でかかって来たときと、もう一回は私の家に訪ねて来た客に、家にいる娘からかかって来たときの二回である。二度とも私が電話口に出て、二度 とも私は息子のガール・フレンドからかかって来た電話のときと同じ、おや、という印象を持ったのである。

 その新種の声の特徴は、まず第一に「××君いますかあ・・・」というときのその<かあ・・・>という何とも明るい、 のびやかなトーンにある。普通、私たちが<いますか>と短く切るところを、三人の女の子は共通して<かあ・・・>と伸ばして発音する。ききようによっては 大変明るい印象で結構なのだが、場合によっては、その声は余りにもいまの大人たちには、あっけらかんとしているように聞こえなくもない。

 ついでに、つけ加えておくと、私の息子とガール・フレンドは、一度、その両親にとっては、とんでもないことをしでか したことがある。二人は同じ大学で、私の息子は下宿から、ガール・フレンドの方は自宅から学校に通っていたのだが、つまり二人共謀して両親に無断で勝手に 同棲を試みたのだ。私の方は男の子なので、さして問題でもなかったが、先方の両親にしてみれば、女の子のことなので、その心配は私の方の比ではなかったと 思う。それだけにまた、私の息子の方はそれほど両親にかくれてする必要はなかったのだが、ガール・フレンドの方は、両親にひたかくしにする必要があったの だろう。それだけではなくて、息子のガール・フレンドは、その母親は別として、その父親に対しては、何を話しても無駄だ、という敵意に近い感情をもってい たようである。

 勿論、学生同士の同棲なぞ、私も賛成するわけはない。だが、そのとき私がふと感じたことは、それ以上に、その底に流れている親子の間の言語の断絶ということであった。

 普通よく親子の間の会話とか、コミュニケーションとかいうが、私がここでいう言語の断絶というのは、必ずしもそのこ とではない。いや、むしろ、コミュニケーションとか親子の会話とかいう言葉のなかには、余りにもこの言語の断絶に対して無感覚な場合が多いような気がす る。だが、言語の断絶に無感覚なものが話あえば、それはコミュニケーションになるどころか、ますます断絶を深めることになるだけだ。

 私が最初に書いた、あの「おや」という印象も、このことと多分に関係があることと思われる。三人の女の子が共通して 「かあ・・・」と伸ばすからには、それはいまの若い女の子の共通したトーンなのだろう。だが、それがわたくしには、<おや?>と思ってひっかかるところが ある。つまり、その言語は私たちと別のところで生きている言語なのだ。

 このことは何も親子とか世代の相違とかに限られたことではない。本当は、現代に生きる個人の一人一人に内在することでもあるのだ。

 言語というものは、普通ごく一般的にコミュニケーションの道具として考えられているが、その反面ではまた、コミュニ ケーションを妨げる最も重要な要素の一つでもある。それは人びとが、ただ単純に言語を一般に通用するもの、人びとに共通のものと思って、その裏側のある言 葉のもう一つの面、言葉の独自性、内在性に関して、余りにも無神経なところから生まれる。

 だが厳密には、言葉というものは、各個人がそれぞれ別々に、個有のものとして持っているものだ。それは一つの生きも ので、その個人の歴史とともに生き、環境や、時代とともに生きているものである。われわれの感性というものは、恐ろしいもので、時代や環境の変化ととも に、われわれ自身も気づかぬうちにどんどん変化して行く。そして、それにともなって言葉もまた、どんどん変化して行くわけだ。だから本当は、言葉というも のは各個人が一つずつ持っているものだといった方がいいのかも知れない。われわれがしゃべるのは、その一つの言葉が、他の人にも通用する、とあてにして しゃべっているに過ぎない。

 いつだったか、丸谷才一氏が「言葉のストライクゾーン」と題するエッセイのなかで、現代の日本語は言葉のストライク ゾーンがむやみに広い。どこに投げても審判はたいていストライクゾーンにとってくれる。その理由の一つに、日本語の基本である和語は語彙が非常に少ないた めに、漢語や外来語を併用することが多いためだ、と書いていたのを読んだことがある。

 だが、現代の日本語のストライクゾーンが広いのは、必ずしもそのためだけでない。いま一つ、社会的な変化の激しさ や、世代の交代の早さもその理由にあげることができる。言葉という生きものをむしろ頑固に守っていたらたえず孤絶するものではないかという不安がつきまと うため、お互いにストライクゾーンを広げて、それで何となくコミュニケーションが出来たという安心感を得ている場合も非常に多いのだ。老人は若者のとんで もない高い球をストライクにし、若者は老人のワンバウンドしかねない球に、ストライクと手を挙げたりしている、といった方が真実に近いのではないだろう か。つまり、コミュニケーションの時代、情報の時代にあっては、その様にしなければ個人の安心はないのだ、ともいえる。

 だが、そうした言葉の氾濫は、その一方ではまた、益々言葉の亀裂を深めてもいる。例えば、先のガール・フレンドと両 親の場合のように、肉親の場合などは、言葉のストライクゾーンは、反対に極端にせまくなる。それぞれがお互いの言葉のストライクゾーンを頑固に譲らないか らだ。日頃の妥協が、他人の言葉のストライクゾーンを正確に見きわめる、という努力を怠らせているためである。この場合には、言葉というものはコミュニ ケーションの道具どころか、何よりもコミュニケーションを疎外するものでしかなくなるのである。

 こうした現象は、何も肉親の場合に限られたことではない。会社の組織の中でも、上役と部下、同僚同士、また男子社員と女子社員といったいろいろな形で現われる。

 つい最近、男女雇用機会均等法なるものが成立したが、しかし、これによって男と女が何もかも均等になったわけでは勿 論ない。まだまだ男と女が社会的に置かれている立場は違うし、第一、男と女の肉体的な条件も違うし、いままで置かれて来た歴史的条件も違うし、また、言葉 も違う。

 最近の女性は、男らしい男性に対しては余り魅力を感じないで、むしろ女性的な男性、優しい男性に魅力を感ずるといっ た話をきいたことがあるが、しかし男性の方は、依然として女性に対しては何よりも女らしさをのぞんでいる。これは会社の中でも同じことで、少なくともいま の日本の会社のほとんどは、会社イコール男性の代名詞でもあるわけだ。だから雇用均等法といったところで、はじめから男性が女性を雇うわけで、本当に均等 であるわけがない。勿論、女性の部長、女性の重役、女性の社長がいないわけではないが、いまのところはそれは例外といった方がいい。これから続々生まれる か、というと、そんな想像もあまり浮かんでこない。だいいち男が=会社が、女性に対してまず第一に女らしくあることを要求していたら、そんなものが生まれ るはずがない。

 この場合、だからコミュニケーションは、勢いどうしても一方的なものになる。女らしく、ということのうちには男に従 順であるということも含まれるのであるから、女と男が対等でいいわけがない。従順な支配者なんてきいたことがない。雇用は均等であるかもしれないし、月給 も均等であるかも知れないし、昇給も均等であるかも知れないが、どこか根本のところで均等でないものがある。その根本のところの一部分に、やはり言語の問 題がある。最近の女の子は言葉が乱暴だとか、言葉遣いを知らない、とか、敬語の遣い方も知らない、とかいう話をよくきくが、これはやはり女の子は女らし く、という会社側の要求の現われである。

 そんなことは当たり前のことじゃあないか、というものもあるかも知れないが、男女の均等ということは、本当は言語の問題から始まらなければならない部分も、山ほどある。

 さっきはいい忘れたが、私が息子のガール・フレンドの「いますかあ・・・」という声をきいたとき<おや?>と思った のは、また同時に、日本語は変った、とは大袈裟な、と思う人もあるかも知れないが、事実、言葉などというものはしょっちゅう変って行くものなのだ。間違っ た日本語が、いつか日本語になってしまうことだったある。私が最近気がつくのは、最近の日本語には、敬語が本当に少なくなったということだ。いまではもう 使われない敬語が山ほどある。敬語などというものは、だいたいまだるっこしいから、現代ではだれも使わなくなってしまったのだ。敬語というものは、だいた い昔から女性の方が使う機会が多かったのだから、これを放棄したのは女性の方だといえるかも知れない。その反面、敬語が減ったのは、社会が均一化した証拠 であるともいえる。大袈裟にいえば、いまの若者の使っている日本語と、私の日本語とでは、日本語がちがうのだ。私はいまの若者の知らない日本語を沢山知っ ているかも知れないが、いまの若者の使っている日本語で知らない日本語も山ほどある。まして今日のような変化の著しい情報社会にあっては、どっちが正しい かなどといったって始まらない。

 だが、これが会社ということになると、そうもいかない。会社には会社の言葉がある。勢い社員にも、その言葉を要求す る。社員教育というのは、実務の教育もさることながら、会社の言葉を教育する場であるともいえる。これは、つまり、いまの若者の言葉があり、私の言葉があ ると同じように、会社の言葉があるということではないだろうか。

 こういうと、何か私は、いまの日本には数限りない日本語があるといっているようにきこえるかも知れない。何も私は本 気でそんなことをいうつもりはないが、しかし、一方その反面、言葉の本質的な一面には、そうした要素がないといえないこともない。例えば少なくとも会社に おいては、社長の言葉は、某々という社長の個人の言葉であるより先に、会社というコミュニケーションの場においては、社長という地位の言葉であるといった 方が正しい。これは部長の部下に対する言葉の場合も、部下の部長に対する場合も、女子社員の男子社員に対する場合も、男子社員が女子社員に対する場合も同 じことである。しかし、その社長の言葉が完全に社長の言葉になり切っているかというと、それも疑問で、実際には、ただそれぞれの立場の人間が、お互いに自 分の立場を前提にし、あるいは相手の立場や人間をあてにしてしゃべっているに過ぎない。丸谷氏のいうやたらにストライクゾーンの広い言葉が生まれるのも、 このあたりの事情からで、現代のように世代の変遷が早く、かつすべての分野で目まぐるしく変化して行く時代にあっては、お互いにわかったふりをしなくては 通用しない部分も、また非常に多いのだ。いや、ふりというだけではなく、わかっているというそのニュアンスが少しずつずれている場合も少なくないかも知れ ない。わかったような感じ、ただそれだけがコミュニケーションの母胎になっていることも、決して稀ではないのである。

 この傾向に拍車をかけるもう一つの要因に、コピー用語の氾濫がある。

 現代は、よく情報の時代、宣伝の時代といわれる。この時代の波に乗って氾濫しているのがコピー的言語であり、またコ ピー的感覚である。この感覚は、相手の立場や、感覚をあてにするところから始まる。コピーにおいては、言葉はいつも外に向って使われるのだ。コピーの言語 が媒体とするものは、いつも感覚であり、それも自分の感覚であるより以上に、相手の感覚、出来るだけ幅広い大衆という相手の感覚なのだ。

 このコピー的発想や、コピー的言語は、困ったことに、今日においては文学のジャンルにまで進出して来ている。コピー 的言語は気が利いているし、またたやすく大衆に認められやすい。大衆の眼には気が利いていることが即才能と思われがちだし、また感情に訴えることによっ て、大衆に何となくわかったような感じという快さを与えることも出来る。

 だが、言語というものを考えるうえでは、言語のもつ、もう一つの機能もまた決して忘れてはならないはずだ。そのもう 一つの言語というのは、もともと文学が目指していた言語で、この言語はいまではコピー的言語の下に、また、大衆的言語の下に余りにもうずもれてしまってい る。それは内に向う言語であり、感覚よりも実体に向う言語であり、表現よりも、そのもの自体の本質を目指す言語でもある。

 もともと文学は、言語を通して人間の本質に迫ろうとする情熱から生まれたものであるが、この場合言語とは伝達の手段 であるより先に、作者自身の認識の手段そのものでもあったわけだ。文学が問題とする言語は、自己に内在する言語であり、コピー的言語とは反対の極にある言 語だともいえる。それは相手のわかったような感じが大切なのではなく、自己が明確にわかることが大切なのだ。文学の根本には、つまり言葉のコミュニケー ションではなくて、言葉の亀裂が横たわっている。文学においては、言葉は百人百様の言葉であり、だからこそ、それは彼自身という人間の本質を示すものでも あるわけだ。

 これはしかし、本当は何も文学だけに限ったことではない。いや、むしろ、文学がそのような言語を出発点とするという ことは、それが人間という存在そのもののあり方であるからだともいえる。言葉というものは、伝達より先に、まず己れ自身の認識の手段であるはずである。文 学は、己れの言葉を、まず己れのうちの正しい位置に認識する。他人の言葉と己れの言葉の間の距離を認識し、亀裂を認識する。言葉は伝達の手段ではなく、己 れという人間そのものだと認識し、だからこそ言葉は各人各様、千差万別だと認識するのだ。作家は、その認識にもとづいて、自分の言葉による自分の世界を打 ちたてる。作者が求めるものは、読者とのコミュニケーションではなく、読者の理解でもなく、ものがそこにあるが如く彼が読者の前にあることなのだ。

 言葉の、この部分は、つまり言葉の伝達不能の部分でもある。そして、人間は、作家に限らず、本当はだれしも言葉のこ の部分を抱いているのだ。言葉のこの部分は、何よりも彼自身にかかわるものであり、目に見えないところで彼自身を形成しているものであるともいえる。そし てまた、現代では最も埋もれた部分であるともいえるわけだ。いや、最も忘れられた部分、コミュニケーションという言葉に、情報という言葉に、組織という言 葉に押し潰された部分、といってもいいだろう。

 フランスにおける象徴派の巨匠マラルメの言葉に、

 “Je dis Fleurs” という言葉がある。

 直訳すれば<私は、 いう、花>という言葉だが、この言葉ほど端的に象徴派の詩人であるマラルメの言葉に対する厳しい姿勢を示している言葉はないだろう。

 私はいまここで何もマラルメと同じ次元で、今日の社会における言語を論ずるつもりはない。しかし、私たちが今日の社会で、マラルメのいう“Je dis”といいうる言葉をいくつ持てるかは、何もマラルメに限らず重要なことだと思う。

 真の言葉のコミュニケーションは、この“Je dis”という言葉から始まる。それは何も、今日の人びとに詩的言語の厳しさを持て、ということではない。それ以前の言語の特質を、もう一度原点に帰って 考えてみることの重要性を、ただ私はいいたいのだ。それはごく普通の日常の言語のなかにも実は内在しているし、職場における言葉遣いのなかにも、またコ ミュニケーションそのものの本質のなかにも内在している問題である。われわれは普通言葉というものをだれしもに共通のものと思い、その前提に立って、やれ 話し合いとか、コミュニケーションとか、いっている場合が多い。しかし、この場合、何よりもコミュニケーションを疎外しがちなものは、ほかならぬこの共通 の言葉という前提なのだ。われわれが言葉遣いに気をつけ、真の話し合いを求めるには、しかしわれわれは何よりも先にわれわれの間の言葉の亀裂にこころをく ばることから始めなければならない。われわれは、われわれの“Je dis”をもつと同時に、相手の“Je dis”にこころを配る必要がある。それは男女の間の会話でも、商売上の会話でも、組織の中での会話でも何ら変ることはない。言葉というものは、時代とと もに生きると同時に、また個人とともに生きるものでもある。今日、もっとも恐るべきことは、この言葉の亀裂ではなく、むしろ言葉の亀裂に対する不感症なの だ。安易に言葉の共通性という前提の上に立ち、コミュニケーションといい、話し合いといい、正しい言葉遣いというところに、今日の人間関係の悲劇がひそん でいるともいえる。言葉は、人間同士のコミュニケーションのごくごく一部を担うものにしかすぎぬ。しかしそれは、私たちの感情と同じように、時代とともに 私たちの気づかぬところでどんどん変化して行くものだ。大切なことは、私たちが“Je dis”といいうる自分の言葉を持つことであり、一方では、またこの変化して行く言葉に、十分こころを配ることだ。真のコミュニケーションとは、共通の言 葉の交換ではなく、われわれのお互いの“Je dis”の言語の亀裂をこえた触れあいのなかにあるのである。職場のなかであろうと、友人同士であろうと、親子の間であろうと・・・。いままでにもさんざ ん言ったように、今日の社会は目まぐるしく変化していく。さきに述べた男女雇用機会均等法にしても、いまのところその実態がどうであるかは別にしても、 徐々に女性の意識を変え、また社会的感覚を変えて行くだろう。それはただ単に意識だけではなくまた女性の言語改革にもつながって行くかも知れない。アメリ カでは、いまや女性のマネージャーは全管理職の32・4%を占めるというが、日本だって近い将来続々と女性の重役が現われ、局長が現われ、部長が現われる かも知れない。だが、だからといって、勿論、女が男になるわけでもないし、男にとって変るわけでもない。五年前の調査によれば、そのアメリカでも、成功し た女性たちは、男性と同様にふるまうことによって、そのポジションを獲得したが、いまは反対に女性であることを別にハンデとも思わず、男と同様にガンバル こともない、という意見が多数を占めているという。言語の問題も、勿論、この例外ではない。言語がもしも個々の言語であることによって生まれたものなら ば、男女の雇用の均等は、女性が真の女性の“Je dis”を持ち、男性もまた男性の“Je dis”を持つことによって、はじめて実現されるのではないだろうか。言語の認識とは、ほかならぬ言語の亀裂の認識なのである。

1986年8月