マイナス1票への提唱


 フランスの詩人、ポール・ヴァレリーの書いた「テスト氏」という小説は、主人公が最後にいう<NON>という、すこ ぶる象徴的な言葉で終っている。この<NON>は、いうまでもなく、英語でいう<NO>であるが、ヴァレリーは、この<NON>という言葉を最後に主人公 にいわせることによって、この言葉のなかに、主人公を支える人間的尊厳のあらゆる意味をこめているように思われる。この<NON>は、人間が人間としての 自我を画する<NON>であり、<OUI>が人間の連帯を示す言葉であるとすれば、そのなかにあって自我の孤立を内部から支える言葉であるともいえる。

 この<NON>は、いうまでもなく否定を表わす言葉であるが、それと同時にまた、人間のもつ否定の権利を示す言葉でもある。それは<OUI>が人間のもつプラスの思想であるとすれば、そのプラスの思想のなかで唯一自我を支えるマイナスの主張であるということも出来る。

 人間の歴史は、過去、勝者の歴史といわれて来た。だとすれば、この<NON>はまた、その勝者の歴史のなかで、敗者が唯一自我の存在を証うる言葉であるともいえるだろう。<NON>という言葉によって、人間は、最低限の<自我>の存在を確立するのだ。



 さて、冒頭からずいぶん大袈裟なことをいってしまったが、この大袈裟なことが、実は今度の統一地方選に少なからず関係があるように、私には思われる。

 そのもっとも端的な表われは、東京都の都知事選、ならびに区市町村議員選における、50.75パーセントという史上最低の投票率である。ほとんど半分のものが投票していないのであるから、これは本当は選挙というに値しない選挙であるといえるかも知れない。

 新聞は、この最低の投票率を、よく天気のせいにしたり、政治への無関心という言葉で表現したりする。投票しないの は、関心がないからだ、というわけであるが、これは本当は勝者の思想の代弁以外の何ものでもないように私には思われる。棄権は、投票と同じように、市民の 権現である。ある意味では、それは一般市民の最低限での自己表現であるともいえる。

 では、この最低限での自己表現とはいったい何を意味するだろうか。

 過去、日本の歴史は、戦後を境として、ながいことプラスの歴史を歩んで来た。そのプラスの歴史のなかで、日本は、豊 かになり、経済的にも成長し、いまや世界屈指の経済大国になった。それと同時に、それはまた、プラスの思想の正当性を、根強く日本の国民に植えつけて来 た、ともいえる。このプラスはまた、<OUI>の思想であり、この<OUI>は、いまや日本の社会を覆いつくしているようにさえ私には思われる。

 今日では、民主主義の正当性を疑うものはだれもいない。自由主義の正当性を疑うものもだれもいない。根源からそれを 問い直してみようとする兆候さえないのである。今日の政治は、いわばその正当性の上に安心してのっかっている政治であるともいえる。<NON>という声 は、どこからもきこえてこない。いや、きこえてきても、それはきくに値せぬ、小さいものたちの小さなつぶやきでしかない。それは社会に適合せぬものたち の、引かれものの小唄ごとき<NON>であり、単に<OUI>の社会からはみ出したものたちの<NON>であるに過ぎない。

 しかし、この<NON>が、もっとも端的に表われているものが、この選挙の棄権という現象であるように、私には思われる。この現象は、もっとも端的であると同時に、もっとも消極的な現象であり、その意味では<OUI>にならされた市民の、もっとも市民的な現象である。

 私は、最近、選挙の記事を読むたびに、食卓でよく見かける母と子の風景を思い出す。母親は、子供に食卓に並べられて いる食べものを食べさせようと躍起になっている。だが、子供の方は、腹がいっぱいなのか、好きなものがないのか、いっこうに何も食べようとしない。最後に は、母親は一つ一つのおかずを子供の口に無理やりねじこもうとするが、子供の方はそれに負けじと頑強に唇をむすんで、顔をそむけている。それは、ふだん支 配者である母親への、子供の最後の抵抗であり、子供という自然そのものの抵抗であるかのようにも見える。

 最近の選挙は、つまり、この子供とおかずの関係なのだ。選挙のたびごとに、どれも食べたくないおかずが、食卓の上に は並ぶ。新聞は、この食卓の上のおかずを無理にでも食べなくてはならないように書きたてる。食べたくなくてもがまんして食べる。それがお利口な子供であ り、優良な市民というわけである。特に支持したい政党もないし、信用できる個人もいない。選挙で各党相乗りの候補者が圧倒的に当選するのは、本来からいえ ばまことに珍妙なことであるが、ただ単に各党が推した候補であれば、というその候補者に対するすこぶる常識的な、そしてまた素朴で消極的な安心感の表われ でしかない。

 考えてみると、いまの選挙はすこぶる片手落ちのような気が私にはする。よく一票の票の重さというが、プラスの票だけ があって、マイナスの票がない。票はいつも積み重ねられるだけで、そこから何も差し引かれることはない。候補者はただ積み重ねられる票が一票でも多くふえ ればそれでいいのであって、選挙に金がつきものになるのもそのためである。金と権力とは、どっちでもいい市民に働きかけるには、有効な手段というわけだ。 だが、このどっちでもいい市民が、金をもらって、投票所に行ったり、また権力への義理で投票所へ行ったりした一票が、果たしてそのまま政治的関心になるのだろうか。こうした票もまた棄権に加えたならば、いまの選挙は果たしてどれくらいの棄権率になるのだろうか。

 しかし、その反面、この棄権率は、必ずしも市民の政治への無関心をそのまま表わしているのではない。棄権した市民 は、天気が悪いから棄権したのでもなく、忙しいから棄権したのでもなく、投票したくないから棄権したのである。腹いっぱいの子供もいるだろうが、なかには 腹が空いていても、固く唇を結んで、そっぽを向いた子供も何人かはいるのである。そんな子供のために、いまの選挙は、いったい何をしてやっているのだろう か、そう考えるといまの選挙には定員是正など考えるまえに考えねばならない疑問な点が大いにある。

 考えてみると、いまの日本の社会はプラスの積み重ねであり、そのプラスの思想の代表選手が選挙であるといえなくもな い。いまの選挙の姿勢は、<NON>という声に対してはいっさい聞く耳をもたぬ、という姿勢でもある。だが、市民がもっとも市民らしさを取りもどすのは、 本当はこの<NON>という姿勢からなのだ。この<NON>という思想は、人間が真に人間らしい最低限の主張なのだ。それは勝者の歴史ではなく、勝者の歴 史の下に眠る敗者の最低限の存在の証でもある。

 そこで、私は、はなはだ突飛であるが、選挙の票に、マイナス一票というのをつけ加えることを是非提案したい。このマ イナス一票は、プラスに対するマイナスの最低限の主張であり、あの人には絶対になってほしくない、という否定の一票でもある。だいたい選挙には、プラスだ けがあってマイナス一票がないのは矛盾ではないか。本来ならば、プラスの一票に対して、マイナスの一票があるのは当然の話である。

 このマイナス一票の効用はいろいろある。一つは、市民の投票意欲を高める、ということである。私は選挙に行かないと いう人びとの何人かにこのマイナス一票の話をし、それでも投票に行かないかどうかきいてみた。すぐ「いや、それなら行く」という返事が彼らの全員から返っ て来た。いまの選挙は、市民にただおのれの一票の無力感を感じさせるだけなのに対し、もしマイナス一票があるとすれば、それはむしろ政治に対する彼らの積 極的な参加の意識をもたらすからである。<NON>とこたえること、それは消費税に対する一般市民の反応同様、市民の積極的な姿勢の表われなのだ。マイナ ス一票の、もう一つの効用は、政治家自身の倫理意識を高める、ということだ。マイナスの一票を投票されてはかなわないから、政治家は、いきおい己れの出処 進退を慎まなければならない。金で一票を買ったとしても、その行為は当然市民の反発を呼ぶから、またマイナス一票をふやすことにもなる。

 これは、勿論、現在では単に面白い思いつきにすぎないかも知れない。しかし、このマイナスの一票には、当然プラス社 会に対する警告も含まれている。人間は、過去、この地球上に君臨する勝者としての、人間の歴史を築いて来た。そのために弱いものを数多く犠牲にし、滅ぼし て来た。いま、その結果として、自然の愛護や動物の愛護を唱えているが、彼が滅ぼしたものは、自然や動物ばかりではない。彼のうちの弱きものもまた同じよ うに、それを正しいこととして、滅ぼして来たのである。だが、いま人類が見舞われている危機は、その勝者としての人間の危機なのである。人類はいまや、そ の勝者ゆえの<乏しき時代>に突入している。プラス感覚、<OUI>感覚の貧しさに直面している。その脱却のためには、<NON>という言葉がわれわれに もたらす最低限の自我にわれわれはいま一度立戻らなくてはならない。

 「いま、論議が集中している原子爆弾も、特殊な殺人兵器として、致命的なのではない。すでに以前から死、しかも人間 の本質の死をもって、人間を脅かしていたものは、すべての領域における計画的自己遂行の意味における、赤裸々な意志の無制限ということであった。人間をそ の本質において脅かしているものは、自然のエネルギーの平和的開放、変形、貯蔵、管理によって、人間は人間存在を万人にとって耐えやすいもの、そして全体 として幸福なものとすることができる、という意志の臆見なのである」

 と、ハイデッカーはいっている。そして、この意志の臆見とは、また勝者としての人間の臆見にも他ならないのである。 だからこそ、いまわれわれに求められていることは、この臆見に対する<OUI>という一票ではなく、<NON>という、まことに象徴的な一票である、とも いえるのである。

1987年6月