自己防衛の国
こころ不在の社会―


 湾岸戦争をめぐって、日本のとるべき立場がさかんに議論されたことがあった。議論の中心は、勿論、平和憲法の解釈を めぐったものが中心で、ただ単に日本が金だけ出せばそれでいいのか、という問題や、その金が仮に戦争に使われてもそれは平和憲法の精神にもとらないのか、 という問題や、平和のために国連に派兵することが、憲法の解釈上許されることなのか、どうか、という問題がその主たるものであったようだ。

 ところで、この日本の平和憲法は、日本が第二次世界大戦に敗れた後、その戦後の混乱のなかで、半ばは占領国であった アメリカの手で作られたものだ、という歴史的な背景があることを、いまの日本人は少し忘れすぎているのではないだろうか。だから、そんな憲法などどうでも いい、というのではない。アメリカがこの憲法を作った目的が、日本が再び軍事国家になることをもっとも懸念したところにあるとすれば、一方日本の側がこの 憲法をすすんで受け入れたのも、戦後の荒廃のなかで、戦争というものの悲惨さを身に沁みて感じていたことにある、という点を私は忘れてはならない、と思う からだ。日本は、だから自己防衛のためにも戦わない。平和ということそのことを武器にして、日本という国を守るのだ、ということが、少なくともその当時の 骨子のなかには含まれていたような気がする。

 これは、勿論、理想論といわれればそれまでかも知れない。歴史的な状況は、時々刻々変化して行くものだというなら ば、それももっともなことだとも思う。しかし、その一方では、今度の湾岸戦争のことに限っていえば、世界の日本に対する不満は、日本の憲法そのものに向け られているのではない、ということをわれわれは忘れてはならない。世界の不満は、日本の憲法ではなく、その憲法の優柔不断な運用の方に向けられているの だ。その優柔不断は、少なくとも今日、アメリカをのぞいた多くの国々に、日本に対する不信の念を抱かせているように、私には思われる。信頼関係という観点 から考えるならば、いま日本は世界のどの国から本当の意味で信頼されているといえるだろうか。経済大国日本と、いくら胸を張って見せたところで、それで世 界は日本を信頼するわけではない。むしろ腹の底では顰蹙している、というのが本当ではないだろうか。


 こんなことを書いたのはそれが内外を問わず、いまの日本そのものを象徴しているように思えて仕方がないからだ。九十 億ドルの援助にしろ、自衛隊の派遣にしろ、それは日本がすすんで決意したことではない。むしろ内外の事情を考えて、そのくらいの妥協をしてもいいのではな いか、ということの方が先に立っている。多少憲法を変えたって、あるいは憲法の解釈を拡大したって、それによって現実に適応することの方が、はるかに重要 なことだという考えが、そこには明らかに見てとれるわけだ。そして、それは取りもなおさず、いまの日本の政治家の考えだというだけではなく、いまの日本の 国民そのものの考えだ、いうことも出来るのである。現実に適応する、ということ、それはいまの日本の国民にとって、自己防衛に欠かすことの出来ない大事な ことなのである。

 こうした日本の風潮は、私にはやはり第二次大戦後の風潮のなかから生れたような気がする。日本の繁栄は、むしろその 風潮から生まれた、ともいえる。戦後繁栄した国は、日本とドイツという二つの敗戦国だけだ。なかでも日本は、ドイツのように東西に分割されることもなく、 完全に独立した島国として、他の国がさまざまな問題にかかずらっている間に、ひとりこつこつと経済大国への地盤を固めて来た。日本は、敗戦と同時に、信念 を失った。国家理念だけではない、国民の一人一人が、信念を、信念に対する信頼を放棄したともいえる。それと同時に、現実に対する機敏な反応と、自己防衛 だけが、生きて行く上で欠かすことの出来ないものになった。それは今日の日本では、ほとんど正当性と同意語の意味を持つようになったともいえる。その意味 では、いまの日本では、信念とか、信頼とか、真実という本当の意味で心の世界に属するものは、ほとんどその社会的な意味を失ってしまっているのではないだ ろうか。

 例えば、ごく身近な例をとってみれば、今日教育ママと呼ばれるもののほとんどは、子供を塾に通わせ、いい学校に入 り、将来はいい会社に就職することだけが唯一の関心事になってしまっているのではないか。子供の心の教育などといっても、それが何を意味するのかさえはっ きり判らない母親の方が多い、というのが実際の状況だ。当然、そうした教育は子供自身にも反映するし、ひいてはそれが今日の日本の大企業の繁栄を支える原 動力となっているともいえる。心の問題は、むしろこうした教育では邪魔な存在でもある。心の問題にかかずらわることは、こうした教育のなかでは落ちこぼれ になる危険性すらはらんでいるわけだ。そして、その反面では、現実に適応するためには、多少の悪も仕方がないという考えも生まれて来るわけだ。その悪が法 に触れなければ、それは悪ではない、という考えは、いまや一般の人々の間に滲み渡ってさえいるといえるのではあるまいか。

 こうした社会のなかで、信頼ということを考えるのは、むしろ徒労に等しい、という気さえして来る。人をだますよりだ まされる方が悪い、借りた金を返さぬ奴より、そんな奴に貸した方が悪い、そんな言葉を人々は平気で口にする。最近社会問題化している老後の問題にしてもそ うだ。勿論、平均年令がどんどん延びていることから老人社会の問題が重要な課題になっているという一面もあるかも知れないが、果してひと昔前に、こんなこ とがそんな大きな問題になっただろうか。むかしは、子供は親を信頼していたし、親は子供を信頼していた。学校の先生を子供は信頼していたし、先生もまた、 子供としての生徒を信頼していたものだ。むかしは、そうした信頼関係で、社会そのものが成り立っていたのだ。そんな社会では、法というものは、ほとんど一 般の人々の平凡な生活には何の必要もないもの、ただ社会から逸脱した人々にのみ関係があるものだった。

 だが、いまはどうだろう。よく、日本は法治国家だ、などというが、その裏側では法を利用することが、現実に生きて行 く上で欠かせないような社会に、日本はなりたってしまったともいえる。人々は自己防衛のために、また、自己の利益のために、自分の心ではなく、目一杯法の 知識を利用しようと心がける。法は、善と悪を裁くものではなく、一つの方便なのだ。だれもがいまは、裁判官が本当の意味の善悪をさばいているなどと思って はいない。本当の意味での善悪に対する価値基準など、とっくに人々は放棄してしまっているのだ。

 こうした社会で、信頼関係というのは、いったい何を意味するのだろう。親といい、子供といい、先生といい、同僚とい い、本当の意味での人間としての信頼関係など、どこにもない。金持ちは、ただ金を持っている、というだけで信頼される。大企業は、ただ、大企業というだけ で信頼される。信頼されているのは、彼という人間ではなく、彼の地位であり、財産であり、権力だけだ。

 日本は戦後の荒廃のなかから、必死に現実に適応し、自分を守り、一切の信念を放棄して、ただそのことだけのために生 きて来た。善とか悪ではなく、自己防衛こそが、彼らが生きて行く上での唯一の正当性であった。日本が経済大国になった理由の一つには、この自己防衛の正当 性のもとに、日本人がせっせと金儲けに勢を出して来た結果が、大きな役割を果たしている。これは多分、西ドイツの場合にも似たところがあったのだろう。戦 争に敗れた日本にしろ、ドイツにしろ、信ずべきものは、むしろ平和という名のもとにおける金儲けしかなかったのだ。こういうといかにも単純な見方に思える かも知れないが、それでは、いったい企業にとって、もっとも優先する正当性とは何だろうか。企業は金を儲けなければならない。金を儲ける、ということは、 企業にとっては何ものにも優先することだ。そして、その正当性を認める、ということは、つまり企業だけではなく、ただ大企業に就職させ、エリートコースを 歩ませることが子供に対する唯一の教育目的である教育ママと同じように、国民の一人一人がその正当性を支援しているということなのだ。それをあえて信頼関 係というならば、いまの日本には、そんな信頼関係しかないだろうか。それはしかし、信頼関係ではなく、ただ単なる相互の依存関係でしかないわけだ。

 だから、信頼ということを語るには、われわれはいま余りにも貧しい社会に生きているといえる。

 今日の社会は、心不在の社会だ。

 いや、心不在でなければ生きて行けない社会だ、とあるものはいうかも知れない。銀行の信用以外に、いまの社会は、信頼など何一つ求めていはしないのだ・・・と。

 信頼という言葉には、信頼する側と、信頼される側との、二つの側面がある。しかし、そのどちらの側にも、その心がなくてはならない。人を信ずることの出来る人間が何人いるだろう。それはもしかすると、人に信頼される人間より、はるかに少ないかも知れない。

 今日、世界でもっとも各国から信頼されている国はアメリカである、といわれる。

 では、何故アメリカは信頼される国なのか。アメリカが大国だからか。それもあるかも知れない。しかし、大国というな らば、いまの日本も経済大国である。アメリカはむしろ借金の国だ。そのアメリカが世界から信頼される国であるのは、単にアメリカが大国であるだけではない だろう。世界が感じているのは、アメリカが大国であるだけではなく、アメリカという国がもっている信念の方だ。その信念が正しいか否かは別として、日本の 社会のなかではいざ知らず、世界は決して金だけを信ずるようなことはないのである。最近の大企業の冒しているさまざまな不祥事を含めて、いまや日本という 国は、何よりもその心の問題を含めて、国全体が大きな曲がり角に来ているのではあるまいか。

1991年9月