貧しい国の豊かな民と 豊かな国の、貧しい民


 最近、旧ソ連、東欧の科学者の流出が、問題になっている。旧ソ連や東欧諸国の経済的な困窮を逃れて、海外に科学者た ちが治を求めるのは、当り前のことだが、これらの優れた科学者たちの頭脳が、核開発国に悪用されるのではないか、というのが問題の焦点であるわけだが、この科学者たちのソビエトでの月収が千六百円ぐらいだというのは、何とも驚きいった話だ。だいたい月収千六百円という数字そのものが、いまの日本では意味不 明の数字である、といった方が正しい。

 これと話は別になるが、つい最近、タイの寒村で突然ルビーの優秀な鉱脈が発見されたときの情景が放映されたのを見 た。何でも大変豊かな鉱脈らしく、村人たちがこぞってそれを掘り出し、観光客たちに惜しげもなく、日本でなら間違いなく何萬円はすると思われるようなル ビーの原石を、たった百円で売っている情景が映し出されていた。百円あれば楽に暮らして行けるだけの米が買えるからで、最後にそのルビーのおかげで大金持 になった男の豪邸が映し出されていたが、その豪邸は立派な家具一式を含め二百四十万円で出来たという話だ。

 私は、解体後のソ連の一般国民の経済生活がどれほど深刻なものかよく知らないし、タイやフィリッピンその他の開発途 上国の一般国民の生活がどうなのかも、ほとんど知識がない。だが、それにしても、ソビエトや東欧の科学者の月収や、タイの寒村の人々の生活費の話をきく と、ただ<へぇ・・・>と思うというより、具体的にそれがどんなもので、どんな風にして暮らしているものなのか、全く想像が湧いてこない。

 これは、いまの日本の経済が、それほどまでにソビエトや発展途上国とかけ離れたものになってしまった故なのだろう か。日本は、いまや世界でももっとも物価の高い国で、それだけまた豊かな経済大国である、ということは、いまや日本人のだれしもが思っていることで、先の ソビエトの科学者の話や、開発途上国の低い生活水準の話も、大いに日本の国民のそうしたエリート意識の一端を支えている、ということも出来る。

 だが、少し考え方をかえてみれば、もしも月収千六百円で暮らせる国、一萬円や二萬円で暮らせる国があるとしたら、そ の国は、ある意味では幸せな国である。ということは出来ないだろうか。いまの日本では、月収千六百円はおろか、二萬円でも、三萬円でも暮らすことなど考え ることさえ出来まいということは、いまの日本は終戦から五十年、営々とそうした社会を造って来たともいえる。月収二十万も三十万もなければ暮らしていけな い国、それは決して幸せな国ではない。それは、実際には、戦後五十年の歳月の間に、何重にもわれわれの生活の上を蔽って来た、目に見えぬベールのなせるわ ざといえないことはないだろうか。終戦直後、われわれの多くは無一文で、収入すら全くないものも大勢いた。だが、われわれは、それでもお互いに助け合って 生きて来た。そうした生活の原点ともいうべきものが、いまの日本ではまったく見失われてしまっているのではないだろうか。

 バブルの崩壊、それはとりもなおさず、戦後五十年かかって日本の経済が築いて来たカラクリの一端の崩壊、私には、そうとしか思えないのだが・・・。

* * * *

 どうも日本の国民のなかには、日本人はよく働く国民で、それによって今日の経済大国をなしたのだ、ということは自他ともに認めるところだ、という自信を抱いているものが多いようだ。

 日本人は、額に汗して働く、という言葉が好きなようで、現に先の国会で問題となった宮沢発言のなかにも、「額に汗して働く、ということが大切で・・・」という言葉があった。たしかに、額に汗して働くということは大切で、それに反対するものはだれもいないだろう。

 だが、いまの日本人で、本当に働くことの倫理観をもって働いているものがいるだろうか。福沢諭吉は、かって「人生で 一番大事なことは、一生を貫く仕事を持つということです」といった。これは何も一生を通じてベンベンとしてサラリーマンとして暮らせ、ということではな い。自分が、一生を通じてするに価する仕事を見出す、ということがいかに大事であるかをいっている言葉だ。だが、いまの日本に、果して本当にこれこそ自分 が一生を費してやるべき仕事だ、と思って働いているものが、何人いるだろうか。働くということは、いまの日本ではただ単に金を稼ぐということになり下って しまっている。むかしは金を不浄のもの、と思って金を受け取らず社会のために働いていたものがいたなどということは、夢のような話しだ。

 政治家は金がいる。それは当たり前の話で、だからこそ昔の政治家たちは自分の財産を投げうってでも、額に汗して国の ために働こうと心がけていたものだ。政治献金を浄財というのも、そうした人々の精神に共鳴して庶民がその政治家のために出す金であったからこそ、浄財と呼 ばれたのだ。だが、いまはどうだ、あるのは不浄な献金ばかり、政治家の方は金がかかるからそれを受け取るのは当たり前だとさえ思っている。実際には、額に 汗して国のために働いている政治家など一人もいないではないか。彼らが働くのは、派閥のため、党のため、ひいては自分自身のためだけとしか、とても国民の眼には映らない。

 政治家だけに限られたことではない。もっと困ったことは、いまの日本では、国民のほとんどすべてがそうした生き方を 当たり前だと思っていることだ。だから日本の国民は、ほとんどそうした政治家たちの行為に対して、本当に怒るということがない。ながい歳月の間に彼らが馴 らされてしまった倫理観が、むしろそうした現象に対して、奇妙に応揚にしてしまったのだ。いや、倫理の不在が、といった方がむしろ適当だろうか。それはま た、戦後社会の構造が五十年という歳月の間に、それとなく巧妙に造り出したものだと私には思われるのだが・・・。金権崇拝、事なかれ主義、現実優先の思想 等々・・・。PKOの法案なども、そのいい例だ。単に国際情勢だけが問題だけではなく、この法案の背後には平和憲法をかかげる日本という国の平和と戦争と に対する真の倫理観の確立こそが大切なはずだ。



 「現実にはすべて適合すべし・・・」

 これは戦後ながい歳月をかけて日本の社会が教育して来た基本方針であるように、私には思われる。だから現実に適合す ることなら、多少のことは許される。額に汗して働くという倫理観は、額に汗して金をかせぐという倫理観で、現実に適応すればこそ、額に汗すれば金を稼げる という背景がその後ろにはある。現実に適応するということは、いかにも社会のために何かしているように見えるが、社会の悪をただし、改革することとはほど 遠いことでもある。社会はむしろその上で安穏としていることが出来るのであり、それがいまの日本の社会の構造であり、カラクリでもある。額に汗して働く倫 理観というよりは、いまの日本にあるものは、額に汗して働かせるシステムと習慣といった方がいい。少なくとも、アメリカにしろ、ドイツにしろ、フランスに しろ、子供のころからそのような教育はしていない。

 だが、日本は違う。

 これまた、テレビでの話で恐縮だが、最近、名門の開成中学受験のため塾に通う小学六年生の受験から合格までの姿を追 跡ルポで描いている番組を見た。間違いなく合格出来そうな優秀な子供を選んでルポしたのだろうが、私の印象は、その小学生や両親には甚だ申し訳ないが、す こぶる後味の悪いものだった。合格を目指してムキになる両親や塾の先生もそうだが、当の本人の変に子供ばなれしたエリート意識みたいなものが、鼻についた のも事実だ。雪で交通がマヒし中止になった受験日、地震のためやっと三十分遅れになって始まった試験の日、その両日とも子供と一緒に学校に行っているサラ リーマンの父親の姿も、どこか「うちの子は他の子とは違うんだぞ」といった態度がありありとしていて、この親は一体何を考えているのか、といった疑問の方 が先に立った。だいたい子どもの勉強に父親までがムキになるなどというのは、私には賛成出来ないし、子供のころからエリート意識を育てようなどというのも 決していいこととは思えない。ましてそのエリート意識が単に名門校に入るということだとしたら、それはただ衰弱したエリート意識という他はないだろう。そ の番組の終りの方で、小学生本人がアナウンサーの質問に対して、

 「世の中には、いろいろな考え方の人もいるだろうが、ぼくはこれが正しいと思っているので人から何といわれようとかまわない・・・」

 とニコリともしない表情でこたえたのには、むしろ唖然とし、何か背中にゾッとするものさえ感じた。こんな子供が、そのまま大人になったとしたら日本の社会は一体どうなるだろう、という暗澹たる思いに襲われたからだ。

 しかし、いまの日本では、これが少くとも一般の趨勢なのだ。これはむしろ特殊な例というよりは、一つの成功例でしか ない。いまの子供たちは幼稚園のときから塾に通わされ、中学、高校と、大学を卒業し一流会社に就職するまで、それは続く。彼らが受ける訓練は、勉強そのも のよりも、勉強させられる、という訓練だ。こうして、その訓練を受けた子供たちは、彼らの最終目的たる一流企業にとっては最良の社員になる。何故ならば、 彼らは勉強させられる訓練によって、仕事をさせられることに何の抵抗もない社員になることが出来るからだ。

 いつだったか安部穣二がテレビで、「これは大会社の陰謀だ」といっていたが、全くそうとしかいいようがない。このシ ステムに抵抗するような人間は、社会の落ちこぼれなのだ。いまの社会に抵抗するような要素は、子供のうちから摘みとっておくにしくことはない。明らさまに そうとはいわないが、しかし子供のころから教えこまれた考えや習慣は、そう簡単に変るものではない。

 勿論、学歴偏重という習慣は、日本にはむかしから根強くあった。私たちのころも、よい大学、よい高校、よい中学を目 指して勉強するのは、むしろ当たり前のことであった。だが、塾に通う子など勿論いなかったし、勉強とはさせられるものではなく、つまり自分でするものだっ た。また、一般の家庭では、父親はそんなことにムキになるわけではなく、それは母親の役目で、父親はめったに口を出すようなことはなかった。

 私の父はどちらかというと立志伝中に属する人物の方で、百姓を嫌って田舎をとび出し、自分は東大を卒業し、会社経営 する身分にまでなった経歴の持主だが、私はいまでもその父が、母が余りやかましく勉強々々というと、その横から「男の子は成績なんかどっちでもよろしい。 学校なんかどこでもかまわん」

 と、助け船を出してくれたのを覚えている。男の子には、それよりももっと大事なことがある。少なくとも父にはそうし た考えがあることが、子供心にもそれとなくわかったような気がする。それはまた、そんなものに負けるな、そんなものに支配されるような人間になるな、とい うことでもあったような気がする。

 そして、この父の言葉はまた、福沢諭吉の先に引用した言葉、「人生で一番尊いことは、一生を貫く仕事を持つことで す」という言葉と裏表をなす言葉でもある。一生を貫く仕事とは、人間としてなすべき仕事、一生を貫いてやるに価する仕事を見出し、それを実行するというこ とだ。その仕事には、金になる仕事もあるかも知れないし、ならない仕事もあるかも知れない。男なら、そうした仕事を自分で見つける、それが言外に父のいい たかったことだと私は思う。仕事に対する倫理観、それはそうした仕事に対してこそ、はじめて口にすることの出来る言葉ではないか。



 たしかに戦後のこの五十年の間の日本の経済の成長は、国の内外を問わず、だれしもが認めるところに違いない。その 間、朝鮮戦争をはじめベトナム戦争と、日本の経済の発展に味方したことも否めない事実であるが、しかし、いま経済大国となった日本人の意識のなかには、日 本人はまじめな、よく働く民族である、という自負も少なからずあることも否めないことだ。つまり宮沢元首相の「額に汗して働く、という労働に対する倫理」 という言葉も、この潜在的な自負が無意識のうちにいわせた言葉であるということが出来るだろう。

 だが、これは果して倫理といえるだろうか。働いて金を稼ぐ、それが働くことの倫理だとしたら、それは何とも心貧しい倫理だ。むしろ、いま、世界が日本に抱く不満も、こうした心さびしい倫理に対する批判ということは出来ないだろうか。

 戦前の日本には、金を崇拝するなどという思想をどこかで軽蔑する心が、一般の人々のなかにはあった。金は不浄のもの と考えているものさえいた。金を貯めるなどということは女の考えることで、男には、もっと社会のため、国のためになすべきことがある、というのが、一般の 人々の思いのなかにすら、あったように思う。

 だが、いまは日本の律しているものは、企業は金を儲けねばならぬ、という倫理が何よりも優先しているように見える。 つまり、そのために人々は企業のために働き、さらにはよい企業に入るために小学校のころから塾に通う。政治家が金が要るから、金を集めるのは当然だという 論理も、もとを正せば、この企業倫理の延長でしかない。

 つい最近、リクルートが発展したリサーチ調査によれば、首都圏に住む労働者の残業時間は、月平均三十七・六時間、多 い月には六十二・五時間に上るという。業種別には、出版・報道・広告が四十四・七時間、金融、保険・証券が四十三・七時間、ソフトウェア四十二・四時間 等々といった順で、もっと驚くべきことは、残業手当がこのうち支給されているのはわずか五十四・九%と、半数、全く支給されない、が二十四・九%、支給に 上限時間あり、が十三・一%という内容になっていることだ。

 日本の労働時間の短縮は国自体がすすめて来たはずが、これでは短縮などとは義理にもいえない。サービス残業などとい うのは、恐らく日本だけの現象で、働く倫理というよりは、むしろ子供のころから大企業に勤めることが唯一の目的のように勉強させられて来たサラリーマンの 悲しき習性といった方が当っているだろう。ある銀行員は

 「本当は五時に終るのだが、他のものが皆残業しているので、六時半か七時ごろまでは帰るのに気がひける」

 といっていたが、これは、皆が塾に通っているので、塾に通わなければ上に行けない、といって塾に通う子供と同じことではないか。

 日本の賃金の問題にしてもそうだ。日経連の永野会長が春闘の始まる直前「日本の賃金水準は世界一だ」と発言したのに 対し、ソニーの盛田会長が貿易摩擦にからんで「日本の企業の低い賃金と労働分配率が競争力をケタ違いに強くさせ優位に立たせている」と発言したことが、い ま話題を呼んでいるらしいが、額面の賃金の比率ではなく、実際の賃金の購買力で比較すれば、日本を100とした場合、アメリカは153、ドイツは147 で、日本の方がはるかに低い、というのが実体のようだ。しかも、賃金水準と裏表の関係になる労働分配率となると、先進国のなかでも最低になるという。しか も、それでいて先の宮沢発言が投げかけた波紋の反響をみると、アメリカでは、実際にはアメリカの労働者の方がはるかに条件がよいにもかかわらず、経営者あ るいは株主優先のためアメリカでは労働者が働かない、という意見がかなりあるという。

 これは、いったいどうゆうことか。何故日本では、これほどまでに、すべてに渡って企業の倫理が優先してしまうのか。

 話しを最初に戻そう。何故、日本では、月に二十万も、三十万も稼がなければ喰って行けない社会が出来てしまったのか。



 私のなかに、いまも忘れられない、一つの風景がある。

 それは終戦直後の、すべてが焼け落ち、焼野原となってしまった東京の風景だ。焼けただれた焦茶色の瓦礫の間から、そ れでもたくましく顔をのぞかせていた雑草の緑だ。私はその中に、すべてが破壊され、消滅した後の、むき出された真実を見た。真実が、こんな間近に姿を現わ す機会はめったにない、と思った。そして、その後、その真実が、だんだんとアスファルトに蔽われ、ビルに蔽われて行くのを見るたびに、何故か「あゝ、真実 がかくされて行く」という思いの方が、復興などという言葉よりはるかに強く胸に残った。復興などというよりは、何か似せ物が、虚構が、この地上を蔽って行 く思いがあった。

 その思いは、いまでも、私のなかに底深く残っている。いまでもコンクリートの下に、間違いなく残っている大地と同じ ように、そして、その思いが、いま私に「あゝ、だれがいったい、二十万も、三十万も稼がなければ喰べて行けない社会を造ったのか、」と思わせるのだ。バブ ルなどというのは、本当はほんの氷山の一角で、なにがいったい、こんなカラクリを作ったのか。

 われわれは、先のソビエト、東欧の科学者たちの月収をきいたり、フィリッピンや、インドネシアの人々の生活をきいた りすると、わが日本は、やっぱり経済大国だ、彼らにくらべわれわれは何と豊かな生活をしていることか、と単純に思ってしまう。たしかに彼らの生活は貧しい し、われわれのように文明に恵まれてもいない。

 しかし、いまの日本で、われわれが月一万円で暮せ、五千円で暮せ、といわれたら、われわれはどうするだろう。われわ れには暮す方便さえ思い浮かばない。考えようによれば、月一万で暮せる国、五千円で暮せる国は月二十万円稼がなければ暮せない国よりはるかに豊かな国とい えないこともない。彼らには、それでも暮す方便があり、それでも生きて行ける生活があるわけだ。

 科学は、それが自然に屈している間は、それほど危険はない。危険は、自然が科学に属するようになるところから始ま る。それは必ずしも物的文明だけに限ったことではない。人間自身が作り出した、この世の中のさまざまな制度やシステムにしても同じことだ。それらの制度や システムの層が厚くなればなるほど、人間という自然は、それらの層の下に埋もれて行く。二十万、三十万という月収がなければ暮して行けない日本は、またそ れだけ厚いシステムや制度の層に蔽われている、ともいえるのだ。われわれ人間の自然という原点には、本当は金などなくても生きて行ける、という原点がどこ かになくてはならない。自然のなかに生きている間、少なくとも人間はそうであった。

 そんなことは夢物語りだ、勿論、いまの日本人なら、だれしも、そうだろう。しかし、少なくともその原点自体を見失え ば、人間は人間自身を見失う。自然を愛するのもよい、動物を愛するのもよい、しかし、人間が人間自身自然であることを忘れれば、それは絶滅の危機に直面し ている動物と同じことだ。

 そして、私には、いまの日本は間違いなくその方向に向って歩んでいるとしか思えない。この豊かな国にあるものは、貧困な自然と、貧困な心だ。人間の倫理ではなく、ただただ制度とシステムの倫理だけだ。

 戦後五十年をへた日本は、いまや大きな曲がり角に来ている。その曲がり角とは、もうこれ以上日本は貧しくなってはならぬ、貧しい国民になってはならぬ、という曲がり角ではあるまいか。

1992年4月