法治天国・日本

 この日本では、どうやら年をとると、時代劇を好きになるものが多いらしい。私もその一人で「水戸黄門」やら「遠山金四郎」などのテレビ番組はかかさず見る方だが、私だけかと思って友人たちにきいて見ると、私同年輩及び年上の連中は、大学教授や作家の先生方も含めて、そ んな下らん番組は見ない、というものは案外少ないことに気がついた。

 勿論「水戸黄門」にしても「金四郎」さんにしても、もうそろそろ風車の弥七さんが現われないかな、と思っていると、 ちゃんとこちらの希望通り現われたり、そろそろ桜のくりからもんもんがタンカをきるころだなと思うと、ちゃんとその通りになったりして、始めからストー リーがわかっているといってしまえばその通りだが、反対にこちらの希望通りのコースの料理が出るという快適さもあるわけだ。

 いつだったか、やはりこの「水戸黄門」のファンの一人の老人が、その面白さについて、この世のなかでは一年かかって も二年かかってもなかなかやっつけることの出来ない不正を、たった一時間でやっつけてくれるのだから、こんな痛快なことはない、と語っていたが、まったく その通りで、どうもわれわれ老人には、どこかでこの現実に対するそうした鬱憤がながい人生の間にたまっているのかも知れない。

 私の記憶では、こうした時代劇を見ると、子供のころは、その悪役がいかにもわざとらしくて、そんな悪人など現実にいるはずがない、という思いの方が強くして、いかにも作り話めいて、見ていてちっとも面白くないという印象の方が強かったような気がする。私の子供のころは テレビなどなく、ジャーナリズムもいまほど発達していなかったせいで、大人の社会の実態を垣間見る機会などほとんどなかった故で、大人の社会は子供の社会 と別世界で進行していた故もあったかも知れない。いまの子供たちは、幼いころからいやというほど大人の世界の醜さを知らされているから、そんな私の子供の ころの反応とは、だいぶ違う反応を示すのだろうか。たしかに「水戸黄門」や「遠山金四郎」は作り話は作り話だが、その作り話の最たる点は、水戸黄門や遠山 金四郎という人物ではなく、またいかにも悪人ぶった悪役たちの存在でもなくて、間違いなくその悪党どもが、彼らによってこらしめられ、裁かれる、という点 にあるのだ。この世の中には、時代劇に登場するような悪代官や商人が山ほどいることは、今日のテレビや新聞を通じて子供でも知っていることだし、また水戸 黄門になろうとしてなり切れず、金四郎になろうとしてなり切れぬ人物も山ほどいることも、だれでも、知っているのだ。悪党にしても、この現実の悪党は悪党 ぶっている悪党ではなく、いかにも紳士面した悪党で、だからこの法治国家である日本では、すべてがウヤムヤになってしまうことが、すこぶる多い。私たちの 子供のころと違って、いまの子供たちは、案外そうした現実をしっかり認識しているのではないか。だったらそんな子供たちには、水戸黄門や金四郎という存在 は、単なるピエロとしてしか映らないかも知れない。そんなことを思うと、ふとそんな子供たちの将来が末恐ろしい気がしないでもない。

 もっとも、もう少しこの「水戸黄門」「遠山金四郎」談義につけ加えるとすれば、この「水戸黄門」「金四郎」にしろ、 裁かれるのは悪代官か、悪徳商人どもで、大名が裁かれることは滅多にない。どうもこれは日本という国の昔からのお国柄のせいなのか、せいぜい謹慎するか、 頭を下げる程度のことで終ってしまう。それでも大名が頭を下げるのを見れば、それで見ている方は何となく気がすんでしまうのは、少なくともいまの日本の現 実では、その大名のような方々がはっきりと頭を下げるようなことなど、滅多にない故かも知れない。


 ところで「水戸黄門」「遠山金四郎」といった時代劇に、何故老人たちのファンが多いかといえば、老人たちは、現実は なかなかこうは思い通りに行かないということを、いやというほど思い知らされているからであるともいえる。そして、どうもこの現実をもっとも曖昧なものに している元凶は、私には法治国家である日本のその<法>そのものであるように思われる。

 法は、国民の生活を守るためにあるといわれるが、その反面悪を守る面もないとはいいがたい。だいたい日本の国民は法 治国家の名のもとに、法を絶対的なもののように、心得えているふしがあるが、法とはもともと人間の作ったもの、さらにいえば、国会の作ったもの、代議士ど もの作ったものである。勿論、その国会や代議士が、悪意のもとにそれを作ったとはいわない。だが、法が出て来ると、それまでは明瞭だった事件がすこぶる曖 昧なものに変じてしまうことが、この日本では非常に多い。法が複雑で、またそれ故に弁護士どもが、司法試験という難関を突破して、飯を食うことが出来るよ うになるのかも知れぬ。複雑な法は、厳密であるというより、事を曖昧にする場合の方が多い。もともと人間の作ったものであるから、どんなに綿密な法でも、 網の目は山ほどある。それにまた裁く対象は適法か不適法かであって、善か悪ではない。早い話が、いわゆる政治家たちの汚職事件には必らずといっていいほど 職務権限なる言葉が出て来て、この言葉が出て来ると、急にそれまではだれの眼にもはっきりしていた罪が、曖昧な様相を呈して来る。これは大物の政治家にな ればなるほど顕著で、つまり時代劇の大名のようなもので、せいぜい頭を下げる程度のことで終ってしまうことの方が多い。もっともこの罪というのは法的な罪 のことで、本当の意味での善か悪かの問題ではない。よく罪の意識という言葉を口にするが、この罪の意識は、彼らにとっては法の罪以外には存在しないかのよ うに傍目には見える。

 この法の存在は元来は社会を守るためにあるはずなのだが、最近のオウムの事件などを見ていると、この法のおかげで反 対に社会の安全がおびやかされているような印象をだれしもが感じているのではあるまいか。宗教法人法なるものがなければ、警察はもっと早くオウムの実態を 知ることが出来たし、坂本事件にしてももっと早く解決することも出来、その後のサリン事件など引き起こさずにすんだのではないか、ということはだれしもが いっていることでもある。それだけではなく、いまなおその元凶である麻原を信じ、上九一色村で生活している信者や、在家信者たちが再び何か事件を起こすの ではないか、と不安を感じている人々も数多くいるはずだ。その一方ではオウムの信者は、平気で象の帽子などかぶってビラを配っている。法的に許されること だから、それは仕方ない、ということだ。最初のうちは、そうしたかたくなな信者たちもやはり麻原のマインド・コントロールに縛られた被害者の一人などと人 の好いことをいっていたものもいたが、さすがにそういう言葉も最近はきかなくなった。考えなくてはならないことは、彼らは麻原の毒牙にかかったのではな く、彼らのなかに麻原の毒牙を毒牙ではなく正義であると感ずるものが、どこかにひそんでいた、ということだ。そして彼らがそれを、いまでも正義として感じ ているとすれば、これほど社会にとって危険なことはない。

 しかし、これと同時に、それを彼らに正義と感じさせるものがあるとすれば、その要因はいまの社会のどこにあるのか、 ということもわれわれは十分に考えておかなくてはならない。つまり彼らのマインド・コントロールを考えると同時に、われわれ自身の心のマインド・コント ロールも考える必要があるわけだ。われわれは余りにも今日の社会に安易になじんでしまっているのではないだろうか。政治家たちの腐敗ぶりを見てもそれを当 り前のことだと思い、大会社優先、エリート教育等々、その矛盾をただ致し方ない現実として易々として受け入れてしまっているのではないだろうか。こうした 社会に対する不満が、反社会的な行動を生むのは、ある意味ではそれに気づいて見て見ぬ生活を送っているものよりもはるかに純粋であるともいえる。そして、 そうした見て見ぬふりをする生活の根本にあるものが、どうも私には法という存在であるような気がしてならないのだ。

 その法という存在が、いかにいい加減なものであるかは、最近の宗教法人法の改正の例を見てもわかることだ。その不備 のためにオウム事件というあれだけの出来事を起こしておきながら、政府にその責任をとるなどという意識は全くなく、その改正案も、だれが見てもただのおざ なりのものでしかない。むしろそれは単なる政争の具でしかない、というものもいる始末だ。宗教法人の利益を何故法が守らなければならないのか、私にはさっ ぱりその理由が分からない。守らなければならないのは個人の自由、信仰の自由であって、宗教法人の利益や自由ではないはずだ。すべての法の根源には、当然 善悪という意識がなければならないはずなのだが、善とか悪とかいう意識は、いまの政治家には全くないようにしか、私には思えないのである。

 どうも日本人というのは、何よりも現実を優先する国民であるように私には思われる。それは現実だから仕方がない、と いう言葉はよくきく言葉だ。法も出来てしまえば、それが現実であり、組織も同様である。そんな日本人にとっては自分の職務ということが、一番大切らしい。 組織から与えられた職務、現実から与えられた職務に忠実であるということは、また彼らの正当性の根拠でもあるように思われる。いささかジャーナリズム批判 めくが、最近のオウムの弁護士である横山氏に対するジャーナリズムの在り方などもそれを十分うかがわせるものだ。横山弁護士という人物がどんな人物である かは別としても、彼らの横山弁護士に対する追っかけの光景は、余り見ていて気持のいいものではない。だれだって自分の歩いている廻りをうろうろ歩かれた り、鼻先にマイクをつきつけられたりするのは楽しいものではない。人が不愉快だとわかっていることを平気でするのは、しかし彼らのジャーナリズムという職 務に対する正当性の意識であるといえる。横山氏が「バカヤロー」と怒鳴ったといって、その横山氏をヤユするようなムードもあるが、しかし、このことに関す る限り「バカヤロー」という横山氏の方が、ジャーナリズムの奢った職業意識よりははるかに正当性があるような気がする。

 ところで、この職業意識でいつも私が不思議に思うのは、弁護士と呼ばれる先生方の職業意識である。勿論この弁護士と いう職業は裁判が正しく公正に行われるためにある職業で、裁判官が正しく事を判断する職責があり、検事が正しく罪を追求する職責があるのと同様、裁判にか くことの出来ない存在であることは良くわかる。しかし、今日の裁判は本当にそのように正しく行われているのだろうか。弁護士という職業は、被告を正しく弁 護する以上に、被告が真に悪人だとわかっていても、また罪があると知っていても、法的にそれが立証出来なければ、その罪をかばい、そしてそれに成功するこ とによって成功報酬を得、優秀な弁護士という評価を獲得することも出来る。とすれば、それは公正な裁判ではなく、彼が弁護しているのは法を味方につけた悪 そのものなのだ。

 この法を味方につける、というのは何も弁護士だけに限ったことではない。現代ではむしろ悪人ほど法をよく心得てお り、今度の麻原の横山弁護士の解任事件や、復帰事件にしても、何とか裁判を混乱させようという麻原の意図が見え見えであったとしても、法的にただ傍観して いるより仕方がないということである。

 こうした職業意識は、法と裏腹のもので、彼らはそれが職務であれば、たとえそれが道徳的には許されないものであったとしても、法に許される範囲内なら何でもやってしまう、ということになる。

 その意味では、法というものは、逆に道義心を失わしめるものである、といってもよい。裁判自体が、検事と弁護士とい う職業の、お互いの職務遂行の場所であり、その勝敗によって決まるとすれば、そこには善も悪もない、ということになる。法的に許されることであれば、それ が悪であっても罰せられることがないとすれば、それを罰するものはどこにあるのか。それは個々の良心ということになるのだろうが、その良心は法の繁茂とと もに、ますます衰退して行くのではないだろうか。議員の汚職が発覚すれば、それを防ぐ法律が出来るが、しかしいまだかってそれを完全に防ぐような法律が出 来たことはない。その法律は彼らの良心の所産というよりは、むしろ良心の不在から生まれたといった方がよいような印象ですらある。彼らが良心に頼らず法に 頼ろうとすれば、その法には必ずどこかに抜け穴が存在するのだ。

 本来、善と悪とは法に帰属するものではなく、その個人の意識に帰属するものだ。その意味では、今日の日本ほどその善悪の意識の希薄な国はないといえるかも知れない。

 しかし、もっと恐ろしいことは、社会にとっては間違いなく悪と思えることが、それを犯した個人にとっては善であると いう意識の場合だ。つまりオウムの一連の信者のなかには、そうした意識が間違いなくあるように私には思えてならないのだ。その場合、彼らのなかにあるの は、単なるマインド・コントロールではなく、今日の日本の社会に対する反逆の意識だ。勿論、彼が正しいというのではない。ただ、単なるマインド・コント ロールという言葉で片づけるのではなく、彼らが自分たちを正しいと思う、その正しいという意識がどこから生まれるのか、またそうした意識を生まれさせた要 因が、今日の社会のどこにあるのか、それをもっと根源的に掘り下げなければ、オウムの問題は決して解決しないように私には思えるのだ。そして、その要因は オウムの側だけでなく、間違いなく私たちの側にも存在するといえるのではないだろうか。要はオウムの信者たちのマインド・コントロール を解くことを考えるより先に、私たち自身のうちに内在するマインド・コントロールを考えることの方が、私にははるかに重要なことのように思えるのだ。

 よく、日本は法治国家だから、という言葉を耳にする。だから日本は安心で、よい国だ、という意識が、どうもこの言葉 には含まれているようだ。だが、この意識は、今度のオウム事件で、根本からゆるがされてしまったようだ。それどころか、いまでは国民の多くが、むしろ法に よってずるずると引きのばされるように見えるその結末に焦立っているようにさえ思われる。

 もともと法治国家などということは、何も自慢すべきことではない。法などなくてすむ社会があれば、それがもっとも理 想的な社会であることはいうまでもない。前に私は老子の言葉をもじって、道義廃れて法茂る、と書いたことがあったが、少くともこの日本では法は良く働くと いうよりは、悪く働くことの方が多いように思われる。法さえ逃れれば道義などどうでもよいという考えが、いまの日本ではほとんど常識のようにはびこってい るのではあるまいか。その結果、日本人の良心は、法のもとに極端に衰弱しているように私には思えるのだが・・・・・。

 昔は、法というものなど、一般の健全な生活を送っているものには、何の必要もないものだった。だが今日では、その法 を知らないが故に、法の名のもとにひどい目にあっている善良な市民が何人もいる。悪徳商人ほど法にたけ、法を知らね市民を泣かせている例も、いくつとなく ある。

 最近の沖縄の米軍基地問題にしても、市民の土地を知事が代理署名し、知事が代理署名を拒否すれば、首相が代理署名す るなどということは、どう考えても立派な法とはいえない。この問題に限らず、今日の余り芳しいといえない出来事の裏には必ず法の影がつきまとっている。そ の意味では、いまの日本の国民は法によってその心をマインド・コントロールされているといってもよい。しかしその法は、国民の生活の安全を守る法だけとは 限らない。なかには、ただ単に今日の社会体制を維持せんがために作られた法もあり、よく考えれば権力を維持するに都合のよいために作られた法もある。その 反面では、過去の軍国主義時代の国家権力の抑圧に対して極端に過敏になった結果、今度のオウムの場合のように法がかえってその解決を遅らせる場合もあるだ ろう。どちらにしても、法は人間の作ったものだ。その法に、ただ従順であるということは、かえって人間の心を枯渇させるようになるような気が、私は最近し て仕方がない。法の上にさらに法が重なるような法は、私にはどうしても信用が出来ないのだ。私たちの側の心のマインド・コントロールと私がいうとき、私が 考えていることは、私たちがその生活のなかで、ただ単にそれが現実だからと思い、ただ単にそれが法だからと思って生きているその生き方の底にひそむ無意識 のことをもう一度考え直す必要がある、ということなのだ。

 オウムの信者たちの心のマインド・コントロールを解くためには、まず最初に、私たちが私たちの心のマインド・コント ロールを解くことから始めなくてはならない。その姿勢がなければ、オウムの信者たちにとっては、その心のマインド・コントロールを解いてやるということ は、ただ単に私たちの心の奢りとしか見えないだろう。だが、そうした自分たちの心のマインド・コントロールに対する発言は、私が知るところではジャーナリ ズムにおいても、その他の意見においても、一度も見かけたことがない。その意味では、私たちの心のマインド・コントロールも、オウムの信者同様、かなり重 症であるといえないこともない。人の心を解くということは、本当は自分の心をひらくということなのだ。そしてまた、自分の心をひらくことの出来る人間は、 それ自身心の豊かな人間でもある。法にとらわれ、職業意識にとらわれ、心を失った人間に、人の心を解くだけの説得力などあるはずがない。それはむしろ法治 国家日本の悲劇といった方が当っているのではあるまいか。組織に頼らぬ心だといえる。真に個人の心から湧く、善だといえる。法治国家日本ではなく、法など 何も知らなくても、安心して市民が生活することの出来る社会なのだ。

 もう一度、「水戸黄門」や「遠山金四郎」にもどろう。「水戸黄門」「遠山金四郎」が面白いのは、現実にはなかなかこ らしめることの出来ない悪を、わずか一時間でこらしめてくれることだけではない。「水戸黄門」の印篭や「遠山金四郎」のくりからもんもんは、法とは何の関 係もないからだ。彼らはむしろ悪をうちのめす<個>であり、それはつまり社会のなかで<個>を失って生きて来たわれわれ老人を十分感動させてくれるのだ。

 法のかげに罪がかくれるような社会は、もうわれわれ老人はうんざりしているのだ。よく悪徳商法とやらいうのに老人が だまされるのは、老人になると人を信じたくなるからだ。だんだんと自然に帰り、個人に帰って行くからだ。法だとか、組織だとかいう複雑なものではなく、単 純に人間に戻りたいのだ。いまのように、単純に悪を裁くことも出来ず、うろうろしている日本という国は、老人にとっては決して住み心地のよい国ではない。

 法治国家日本は、政治家諸氏や悪徳商人の諸氏にとってはいざ知らず、少くとも善良な市民にとっては、法治国家日本とは義理にもいいがたいのである。

1996年1月