心触れあうもの


 最近の世の中をみていると、どうも私にはこの世の中のすべての分野で、本質への関心といったものが失われてしまったような気がしてならない。

 そのもっとも顕著な例は、いうまでもなく、いまでは一般市民の眼からみれば例外的存在といってもよいような存在の政 治家の諸先生方で、彼らが予算委員会なる、どうゆう性質の委員会なのかもわれわれの眼から見れば判然としない委員会で、いくら意見を戦わせても、そこから 本質的なものが顔をのぞかせたことは、過去一度もなかったように、私は記憶している。

 意見の大半は、まことにつまらぬ現象論で、彼らの政治家としての信念や理念が顔をのぞかせたことは一度もない。

 信念や理念というものは、それを抱いている人間であるならば、どんな些細な意見のなかにでも、おのずと現われるはず なのであるが、むしろ諸先生方の意見をきいていると、自分の真意を開陳するというよりは、隠蔽するためにしゃべっている場合の方がはるかに多いような気が してくる。

 つまり本質論で意見を戦わせるということは、いまの日本の政治ではほとんどありえぬことなのだ。

 このことはしかし、必ずしも政治家の諸先生方に限ったことではないようだ。

 私はむかし、ある戦前の高名な経営者の一人に「むかしは事業というものは、それを初めて三年たってやっと収益があがってくるようなのが本当の事業で、半年や一年で収益があがるような事業は、どこかインチキなうさん臭い事業だと思われていたものだ」という話をきいたこ とがあるが、いまでは反対に、三年も収益があがらない事業など手がけるものは一人もいないのではあるまいか。

 世の中の回転が早くなってしまったからだ、といってしまえばそれまでだが、半年やって収益があがらないような事業はただちにやめることをメドにしている大会社もあるという話もきいた。

 しかし、その戦前の経営者の話したことの意味は、経営には必ず実体がなければならない、ということで、三年かかって やっと収益があがってくる事業というものは、有形無形にしろ社会に知ってもらい、その還元として社会から利益を受けるのが本当の事業だということで、半年 もしない間に利益をあげるような事業は、何かの間に割り込んで利益をあげるような事業でしかない、というようなことをいいたかったのだと思う。

 しかし、その意味では、今日ではそうした実体のない会社が、日本では山ほどあるともいえる。

 会社というのは、ただ儲ければそれでいいのだ、と思っている経営者も山ほどいるのではあるまいか。

 日本の物価が高いのは、日本の独特の経済機構の故だなどというが、それはそれだけ日本の物価が実体から離れていると いうことで、<物>と直結しない経済というのは、それだけ架空の経済ということで、やはり経済の本質というものが、ここでも見失われているような気が、私 にはするのだ。

 このことはしかし、政治や経済だけではなく、ジャーナリズムの世界でも、もっと顕著の現われているともいえる。

 殊にテレビという媒体であって、そのことが社会にすこぶる有害な働きをする場合も少なくない。

 私はいつだったか、ある新聞のアンケート調査で、「テレビ以外に新聞に求めること」という問いに、テレビは時と共に画面が流れ移るが、新聞は活字であるから時をとどめることも出来る。

 ときに時をとどめて本質を追求することにも努力してほしい、とこたえたことがあるが、いまのテレビの番組をみていると、ニュース番組を別にして、その他の多くは全く実体のない空中楼閣のような気がしてならない。

 ところが、困ることは、その空中楼閣がテレビという媒体によって実体のように働くことで、その場合のテレビは自れがジャーナリズムという媒体であるということを全く無責任に忘却しているように見える。

 世のタレントの多くは、いったいいかなる価値によってテレビに登場しているのか、その実体に対する説明など全くなきに等しいのだ。

 本当に有能な弁護士なのか、本当に優秀な料理人なのか、本当に有能な医者なのか、その実体もわからないままに、われわれは彼らの意見をきいているのだ。

 ついでにいわせてもらうとすれば、最近のテレビは何故あんなに料理番組が多いのだろう。チャンネルをひねれば、必ずどこかでやっているといってもいいほどだ。

 直接われわれが食べられるわけではないから、本当にうまいかまずいかどっちでもいいが、本当に味がわかるのかわから ないのかわからないようなタレントが、真剣な顔をして、スパイスの独特な香りと肉の味がほどよくマッチして、などと批評しているのをきくと、ただただこち らはウンザリするだけだ。

 その客観的な正当性などどこにもないことを、媒体として報道しているという一面を、そのときはテレビの製作者の方も 完全に忘れているのではあるまいか。テレビというものは、価値とは何の関係もなしに価格をつくることの出来る恐るべき媒体であるということを、彼らはもっ と認識すべきだ。

 そのような暴挙を平気で出来るということは、彼らもまた、自れの本質に対して、まったく無関心であるという証であるとしか、私には思えないのだ。

 こうして考えてくると、現代の社会というのはすこぶる実体の捉えにくい社会、実体のない社会、といった方がいいかも知れない。

 こうした社会で、価値観を統一することなどはすこぶる困難なことで、価値観が多様化していくのは、むしろ当たり前のことだといえるかも知れない。

 いや、しかし、真の価値観は物の本質との関わりなしには存在しないとすれば、それは価値観不在の世界といった方がいいのかも知れない。彼らが価値と思っているものは、単なる現実認識で、実際には価値とは何の関係もないことなのではないだろうか。

 私は、つい最近、テレビで「世界お宝発掘」とかいう番組を見たことがある。タレントが二人一組になって世界各国に行 き、百万円の予算でお宝を手に入れてくる。それを鑑識団と称する数人の男女のグループが鑑識し、値段をつけて、勝負けを決める、という番組であるが、私は 彼ら鑑識団のつける値段が何故に正当なのか、またどこから生まれてくるのか、ついに判らなかった。そういっては失礼だが鑑識団の面々の顔触れを見ても、真 に物の真髄が判別出来る人物という印象も受けなかった。むしろテレビ局が、いかなる基準でその鑑識団の面々を選んだのか、その基準の方をはっきりしてもら いたい思いだった。

 勿論、だから私はその鑑識がインチキだったというのではない。しかし、この番組でとりあつかわれているのは、ものの値段ではあるかも知れないが、決してものの価値ではない、ということを私はいいたいのだ。

 彼らが何らかの価値観を持ちあわせているとすれば、それは骨董屋の価値観であって、むしろそれは価値観というよりは、価格観といった方がふさわしいものなのだ。

 しかし、今日価値観と呼ばれるもののなかには、むしろこうした価格観的なものが非常に多いのではないだろうか。

 つい最近爆発的に売れているとかいう漫才師の書いた書物が、爆発的に売れているからという理由で価値があるかといえば、その価値は少なくとも書物としての価値とは別の価値だということになる。

 そのことと、その書物に価値を認めるということは全く別のことだし、また価値観とは何の関係もないことでもある。とりたててそれは不思議なことではないし、また、現代のような架空社会では、すこぶる当たり前のことであるともいえる。

 これと関連するかどうかは別として、現代ではジェネレーションと呼ばれる期間が、昔とくらべてずいぶん短くなったようだ、という話をよく聞く。

 昔はだいたい十年が一ジェネレーションといった感じだったものが、最近の若者は五年もするともう次の世代の考えがよくわからなくなってしまうらしい。

 世の中の周期がそれだけ早くなってしまった、というわけかも知れないが、どうもそれ以外にも理由があるような気が私にはする。

 それは、やはり教育の問題で、教育に一定の理念と価値観がなければ、若者は次々に新しい現象に染まっていくわけだ。

 物の価値は変動しないが、物の価格は変動するのと同じことだ。その価格を価値と混同すれば、価値観はいくらでも多様化していくことになる。

 昔の教育にはまがりなりにも理念があり、価値があった。その限りで、価格も安定していたといえる。

 しかし、理念も価値観もなければ、そこにはただ流動する現象と、それに対する反應があるだけだ。その反應を価値観と呼ぶとしたら、そこにはただ無数にひろがる価値観があるというだけのことになってしまうだろう。

 私は、むかし、ルイ・ヴィトンのハンドバックが世にひろがりはじめたころ、電車に乗って異様な光景に出くわしたことがある。

 前に並んで坐っているそれぞれ無縁の御婦人方が、揃いも揃ってルイ・ヴィトンのハンドバックを膝に置いていらっしゃるのだ。

 それが流行だといってしまえばそれまでのことだが、私には、それは何とも異様な光景にうったのだ。ルイ・ヴィトンのどこがよくて、彼女たちはそれを買ったのだろう。

 彼女たちは全く同じ価値をルイ・ヴィトンの上に見出してそれをかったのだろうか。それは彼女たちのなかで、何か同一の価値観を形成するものなのだろうか。

 だが、よく考えてみれば、それは彼女たちの価値観不在の証しなのだ。彼女たちは決して共通の価値観によってそれを買ったのではなく、価値観不在の故にそれを買ったのだ。

 そして、この価値観不在が、もしも価値観の多様化につながるものだとしたら、それはむしろ精神の貧困を物語ることでしかない由々しきことだ。

 本来価値の多様化ということは、決して悲しむべきことではない。それは豊かな人間性のなかから、初めて生まれるものだ。

 しかし、今日の価値の多様性というものは、そうした豊かな人間性から生れているものとは、私にはどうしても思えないのだ。

 人がそれぞれに独自の価値観を抱くということは、人がそれぞれに独自の存在を確立するということだ。

 反対に、社会のなかでだんだん希薄になって行く自れの存在を感ずるとすれば、人間は自れ独自の世界観を持つこともなく、だんだんと現実のなかに埋没していく。

 本質に迫ろうという意欲もなく、自れ独自の価値観を支える主体もあろうはずがない。

 ものの価値とは、そのものとわれわれとの触れあいのなかから生れる。そのものの本質に触れようと思い、それに触れたとき、われわれはそこにそのものの価値を見出すのだ。

 しかしそのような主体が、果していまのわれわれにあるだろうか。

 そのように本質に迫り、真実に触れようという意欲が、いまのこの日本の社会にあるとは、私にはどうしても信じられないのである。

 もうずいぶん昔のことになるが、いまは亡くなられてしまった作家の北原武夫氏の家を訪ねたことがある。そのとき北原氏がこんな話をしてくれた。

 何でも北原氏が、小林秀雄氏と青山二郎氏と一つの座敷に同席していたときのことである。

 小林秀雄氏は有名な評論家だから説明する必要はないが、青山二郎氏という人の作品は少ないので少し説明しておくと、作品こそ少なかったものの、その人物は小林氏も一目置くほどのスケールの大きな人物で、殊に骨董の目利きに関しては小林氏も師と仰いでいたほどだったらしい。

 ところが、その席にたまたま広津利郎氏が光悦の軸というのを抱えてやって来た。

 二人にその軸を見せたくてやって来たわけであるが、広津氏がその軸を壁にかけて二人に意見をたずねても、二人とも顔 を見合わせただけで、何もいわない。北原氏は横でやきもきしていたが、広津氏がしびれをきらせて、二人の意見もきけず帰って行くと、二人してその広津氏の 悪口をいいはじめた、というのである。

 二人がそのとき広津氏に一言も口をきかなかった理由はこうだった。

 広津氏が持って来た光悦は、間違いなく本物の光悦だった。だが、出来のよくない光悦で、その光悦をただ光悦というだけで得々としているのは、作家として許せない、というのだ。

 私は、この話をしてくれた北原氏も含めて、大変興味深くきいたのをいまでも憶えている。北原氏は小林氏に私淑してい て、骨董は戸棚の中にしまっておくものではなく、使ってこそその良さがわかるという氏の意見をそのまま実行していて、私にもその日古九谷の皿などで刺身を 御馳走してくれたのだが、私は、その北原氏の話のなかにまざまざと小林氏と青山氏の作家精神を見る思いがしたからである。

 しかし、いまの世の中で、小林氏や青山氏派の人物を探すとしたら果して何人いるだろうか。

 広津氏派の人物なら、山ほどいる。いや、そうした人物が、いまの世の中を構成しているといってもいい。彼らの価値は、作品の善し悪しではなくて、それが光悦であるかないか、なのだ。

 だが、小林氏や青山氏が求めているものは、それならば何だろう。

 つまり彼らが求めているものは美なのだ。美という絶対的な価値なのだ。彼らはそこに絶対的な美を求めることによって、そのものに触れ、そのものに美を見出す。

 彼らにとって大事なことは、現にそこにあるものではなくて、そのものを通して彼らが求める美であり、そのものの本質であるのだ。

 一つの価値観を抱くということは、そこにあるものに美を見出し、価値を見出すということではなくて、それ以前にそのものを通して、彼らが求める美を見出し、価値を見出すということでもある。

 この絶対的な美というものは、決してそこにあるものではなく、また造り出せるものでもなく、一生を通じて彼らがそれ を求め、そこへの道を歩むものでもある。それはつまりすべての事物の本質に向う心であり、厳密にいうならば、そうした事物の本質への関心のないところに価値観など生れるはずもない。

 価値観とは、現にあるものの何に価値があるかということではない。自れが求める価値とは何かということであり、事物ではなくその事物が抱く真実への関心でもある。

 その意味では、果して今日の価値観の多様性とは一体何を意味するのだろうか。それは個々の人間の個立家を意味するのだろうか。価値観が異なれば、それは個々の人間の断絶につながるのだろうか。

 そんなことは絶対にない、と私は思う。

 もしも価値観の多様化が、彼らの人間の断絶を意味するとすれば、それは多様化の問題ではなく、彼らの抱く価値の次元 の問題だ。良くない光悦をよくない、といえるのが価値であって、それが本物の光悦か贋物の光悦かをきめるのは価値観でも何でもない。良くない光悦を良くな いといえるためには、それをいうだけの主体がなくてはならない。その主体が価値観の根源であって、その主体がなければ価値観もない。

 しかし、今日でいうところの価値観の多様化とは、その主体なしの価値観なのではないだろうか。


 真実への関心も持たず、本質への関心も持たぬものに、真の意味での価値観など生れるはずはない。

 彼らが価値観と思っているものは、価値観の幻影であり、彼らがそれを越して進もうとするのではなく、本質に迫ろうとするのでもない、ただ単なる現実の投影にすぎないのではないだろうか。

 本来ならば価値観の相違は、現実にとって何の障害でもないはずなのだが、彼らにとっては彼らの価値観そのものが現実なのだ。

 小林秀雄氏や青山二郎氏が求めたものは、世代をこえた美であり、時代をこえた美である。それは時代をこえて触れあう美であり、時代をこえて触れあう心である。

 それはどんなに価値観が異ろうとも、それをこえて触れあおうとする美であり、心でもある。いやむしろ断絶があるからこそ、それをこえて求めようとするところに彼らの価値観があるのだ。

 絶対的な価値を求めようとしないところに、本当の意味の価値観など生れるはずがない。

 そしてまた、絶対的な価値を求めようとする心から生れた価値観は、どんなにそれが多様化しようとも、断絶などそこに生れることはないはずだ。

 それが人の個性から生れたものであるならば、それは人間の豊かさを示すもの以外のものであるはずはないのである。

 私は若いころ、文学を志し、いくつかの同人雑誌に参加していたことがある。野心をもって自分で雑誌を出したこともあった。

 いま考えてみると、青春時代ということもあり、私の人生で最も充実した、愉しい時代でもあった。

 だが、その愉しさと充実感には、私の青春というだけでなく、そのころの時代もずいぶん影響していたように思う。

 そのころは、芥川賞や直木賞など、同人雑誌からずいぶん登場したこともあって、私たちは文壇に出ることだけではなく、何とか新しい文学を創造しようと、自分独自の文学を目指して励んだものだ。

 また、私たちと同じように、そうした文壇に新風をまき起こすことを目指した、若い優秀な青年の集まった同人雑誌も数多くあった。

 勿論、その意味では、それぞれが独自の価値観を持つと自負していたともいえる。

 しかし、そのころの私たちは、それぞれが独自の価値観を持つと自負することによって、かえってお互いに強い連帯感で結ばれていたような気がする。同じ雑誌の同人だけでなく、別の意欲的な雑誌の名前しか知らないものにも、どこか心で触れあうものを感じていたものだ。

 だが、それから数年の間に、そうした若者たちの集まった意欲的な同人雑誌は、目に見えて減っていった。

 私は、その後も十年近く、ある雑誌で全国の同人雑誌の批評という仕事をやっていたが、そのころは意欲的な雑誌は皆無に近かった。

 同人雑誌から直接文壇に出るということもなくなってしまったが、同人雑誌の方でも、そうした意欲を感じさせる同人雑 誌すらなくなってしまったような気がする。あるのはただ趣味で文学をやっていればそれで良しとする雑誌と、あとは地方の文化活動の意味をかねたような雑誌 だけになってしまった。

 私は、こうした同人雑誌の傾向を見ているうちに、何か文学も、すこぶる現実肯定的になってしまったのではないか、という気がしてきた。

 そして、それはそのまま今日の日本の精神的な風土であるような気がしてならないのだ。

 その原因の一つには、絶対とか絶対的な価値とかいう言葉が、今日の若者の辞書のなかにはない故かも知れない。

 これは、何も若者の故ではない、今日の日本の教育制度のなかには、それらの言葉に向って若者を目覚めさせるシステムがないことの方が問題なのだ。

 絶対とか、絶対的価値という言葉は、現実優先の社会では全く必要のない言葉だ。

 いや、むしろ邪魔な言葉ですらある。

 絶対とか、絶対的価値というものは、ただそれを目指すことが出来るだけで、それを実現しようとすることは、現実を否定することで、また現実的には不可能なことでもある。

 そのために、現代の若者には、絶対とか本質とかいう言葉は、すこぶる不馴れな言葉でもあるともいえる。

 しかし、そうした若者たちが、もしもばらばらな価値観を抱くとしたら、それは私たちが若いころ目指した独自の価値観を抱くということとは全く別のことだ。

 それは、それ自体が彼らの隔絶であり、その多様性によってなにかの連帯を持つということは、ほとんどあり得ないことになってしまうだろう。

 価値の多様化という場合には、まず価値とは何かということを現代では殊に考える必要がある。

 価値とは、しかし、本当は、それぞれがそれを求めることによって、心と心とが触れあうものだ。

 価値がそこにあるものでない限り、求める価値がそれぞれに違ったとしても、その求めるという心が触れあうことの出来るものだ。

 本質を求め、真実を求め、絶対を求めるものの心の触れあいほど、実際には深い触れあいはどこにもないのである。

1996年6月