医者よ、自分で、自分を癒すがよい

 先日、今度政府が打出した十六兆円の景気対策に対して、その道の専門家たち六人がそれぞれの意見を述べているのを、テレビで拝聴する機会があった。

 六人のうち、ほぼ半数が効果を期待しているのに対し、残りの半数は、効果に多分の疑問を持っているようで、それがいかにも、いまの日本の実情を示唆しているように思えたからだ。

 私自身は勿論その道の専門家ではないから、そのどちらが正しいなどいうことは出来ないが、しかし効果が期待出来ないという意見の方に、 どちらかといえば共感を覚えたのも事実だ。効果があると思うとこたえたもののなかには、もし、効果がなければ困る、という不安が多分にかくされているよう な気がしたからで、むしろ効果がないと思うとこたえたものの方には、それでもよろしいといった姿勢が十分感じられたからだ。

 なかの一人は、この景気が立ち直るのはまだ二年先のことになるだろうとこたえ、日本が本当に経済の安定をとりもどすには、それよりさらに十年先のことになるかも知れないとこたえていたが、それがいいか悪いかは別として、私にはそれが十分説得力のある意見にきこえた。

 つまり、この意見の裏側には、効果がある、とこたえたものよりも、はるかに本質に裏打ちされた、日本という国に対する、日本の経済に対する自信があるように思えたのだ。

 反対に、そんなに簡単に日本の経済が立ち直るならば、その崩壊もまた簡単

にやって来るのではないか、という不安の方がはるかに強い、というのが実情ではあるまいか。

 よく考えてみれば、私のような戦争を体験し、戦後の窮乏生活を経験して来たものには、いまの日本の不景気がそれほど深刻なものとはどう しても思えない。日本はまだまだ世界のなかでも有数の豊かな国だし、その暮しぶりにしても甚だ贅沢であるといっても過言ではない。その意味で、いまの日本 の抱えている問題は、不景気よりも、その不景気の背後にある不信なのだ。バブルの崩壊に始まって、その不信は、政治不信、官僚不信、大企業に対する不信 と、日本全土を覆っている。

 その意味では、今日の、日本が抱えているさまざまな不安は、その不信を原点としている、といってもいいのではあるまいか。

 これは何も経済や政治だけに限られたことではない。

 たとえばいまの教育にしてもそうではないか。子供たちは、いまの国民が政家を信じられないと同じように、大人たちを信じられない。

 そしてまた、大人たちの方もいまでは何かというとすぐにプツンとキレる子供たちを信じられない、というのがいまの日本の実情なのだ。

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 私が今度の政府が打出した十六兆円の景気対策をもってしても景気の回復がのぞめないという意見の方に傾くのも、この不信のためだ。つま り今日では、政府は完全に国民に対する信頼を失ってしまっているのだ。いや、政府というよりは、野党も含めて政治そのものが、といった方がいいだろう。信 頼を失った政治がどんな対策を打出そうと、効果があがるはずがない。

 つい何か月か前、政府が十兆円出すといえば、それだけで株はあがるといった政治家がいたが、そうした奢りが政治を見誤らせているともいえる。

 いまでは国民のだれ一人としてダウ三万円をわった株価を正当な株価だと思っているものはいない。土地にしても、同じことだ。では、いま の株価は、日本の経済の実体から見て高すぎるのか安すぎるのか、また地価は果たして本当に底値といっていいのかどうか、そうしたことに対するこたえはどこ にもない。一部のものは土地や株価があがることが景気の回復につながると思っているが、つい最近のテレビの調査では、庶民の多くはもっと土地の価格が下が ることをのぞんでいるという。

 つまりバブルの崩壊以来、庶民には、庶民が本当に安心してよりかかれる基準が失われてしまったのだ。それだけではない。大企業や官僚に対する信頼も失ってしまったのだ。

 だから今度の不景気を回復するには、それらの失われてしまった信頼を回復する以外に道はない、と私は思う。患者を癒すより先に、自らが患者であることを自覚すべきときだ。

 そうした自覚は、それ自身がコミュニケーションであり、その姿勢なしには、お互いの信頼もまた生まれることはないのだ。

 これは何も政治に限ったことではない。最近の大企業や官僚の一連の不祥事を見てみればわかることだが、その不祥事の裏側にはそれを必死 にかくそうとする姿勢こそあれ、自らそれを正そうという姿勢は微塵も感じられない。頭を下げる経営者や官僚の姿勢は、むしろそうした不祥事の発生を、現代 の社会では仕方のないものとしているような態度さえ感じられる。

 そして、正直にいって国民もまた、そうした不祥事が発覚するたび、それはほんの氷山の一角でしかない、という印象すら受けるのだ。

 大蔵省のノン・キャリア組のノーパンシャブシャブなどそのよい例で、それはむしろ可愛らしい汚職、ならば、その背後のキャリア組の汚職や、政治家たちの汚職の方は、一体どうなっているのか、という思いを国民に抱かせるだけのはなしだ。

 もともとは、戦後五十年の間にさまざまな形で形成されて来た政・官・財の癒着という悪弊をただそう、というのが、今回の政治改革、行政 改革の出発点であったはずだ。だがその出発点の政治改革はただ単に中選挙区制を小選挙区制に変えるという、多くの政治家にとっては痛くもかゆくもない改革 によってお茶を濁されてしまっただけだ。

 過去の癒着の正直な報告もなければ、自らそれを誤ちとして正そうとする姿勢も、どこにもない。いつの間にかそれは行政改革という、政治 家にとってみれば他人の改革の方にすり変えられてしまった感さえある。もとより、行政改革もまた癒着をただす意味でも不可欠のことであるのはいうまでもな い。

 しかし、行政改革だけで日本の財政が救われるわけでもないし、政・官・財の癒着が改善されるわけでもない。政治家自身が自分の身を削っ てでも、という姿勢は、そこには微塵も感じられないのだ。何ひとつ自分が傷つかずに改革しようとしても、そんな改革が真の改革になり得ることなど、絶対に ないのだ。

 これはまた、政・官・財の、その財についてもいうことが出来る。政・官・財の癒着は、企業の献金などという、そんな生やさしいことでは 決してない。それはごく表面のことで、企業側は以後政治献金は出来る限り自粛するなどといったことで、ただその表面だけで国民の前を取りつくろっていると さえいえる。

 つい最近、政府が銀行の貸し渋り対策として銀行に出した十兆円の国家資金にしてもそうだ。それが今日にいたるまで一向に銀行の貸し渋り を解消していないことは、ジャーナリズムの報道によっても明らかなことだ。だが、それに対する銀行側の説明も何もないし、その効果があがっていないことに 対する政府の弁明も何もない。考えようによっては、それは最初から貸し渋りに対する対策などではなく、それは単なる国民に対する弁明で、官僚には銀行救済 のためだけの目的であったのではないかと疑われても、これでは仕方がないのではないか。

 たしかに、銀行は日本の経済を握る中枢的な存在ではある。だがその救済のために私企業である銀行に、国民の税金である国費を使うというのはおかしな話だ。

 その上救済した銀行の責任を問わないというのも、なおおかしい。だが、もっとおかしいのは、銀行が自ら責任をとってその経営を改善しようとする姿勢が、国民の目には全く映らないことだ。

 その改善は何も経営陣が変ることだけではない。国の救済を受けながら、一般の平均企業とくらべて、はるかに高い水準の給与体系を依然として続けていることも、一般の庶民の眼に苦々しく映るのは当然の話だ。

 山一證券の自主廃業にしても、同じことがいえる。自主廃業を報告した山一證券の社長は涙ながらに、「社員には責任がございません」といっていたが、それにもかかわらず、私の眼には山一證券の自主廃業はやはり大企業らしい恵まれたもののように見えた。

 テレビでは、その後何日かたって山一證券の社員の再就職を求める姿を、失業という不安な日々の姿として報道していたが、にも拘らず報道 された彼らの姿には、まだ十分な余裕があるような気がした。大企業の社員であったという誇りもさることながら、その余裕はやはり彼らの生活の余裕であり、 大企業故に退職金も貰え、失業保険も貰える、という中小企業の倒産とは比べものにならない環境のせいだと私には思われた。

 むしろテレビの報道の姿勢のなかに、やはりテレビでも大企業のぬるま湯につかっているのだな、という印象の方が強かったほどだ。退職金 も出ず、ときにはその月の給料も出ないかも知れぬ中小企業の倒産という現実の方が庶民には身近なものだということを、ジャーナリズムでさえ忘れてしまって いるのではないか。

 ジャーナリズムさえも、政・官・財というこの癒着のなかに、どこかで巻き込まれてしまっている、という印象を、しばしば受ける昨今のように、私には思えて仕方ないのである。

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 こう考えて来ると、いまの日本は、あらゆる分野で他を批判し、改革するより先に、まず自れ自身を癒すべきときに来ているような気がする。

 にも拘らず日本という国はその不安を抱えながら、大変な満足国家でもあるのだ。いや大変な満足国家であるからこそ、その満足が崩壊する 不安を抱えているともいえる。使う金がない不安ではなくて、金を使うことに対する不安だ。その不安は将来に対する不安もさることながら、正当な価値に対す る不安、正確な情報に対する不安だ。

 政治家は、一度実行した政策が失敗しても、その非を認めることは絶対にしない。その非を認め、その理由を追及し、それを改善するのも、 また立派な政治であると思うのだが、非を認めること自体を政治生命にかかわることだと思うのか、そうした姿勢は全くない。彼らがやることは絶えず弥縫とい う策だけなのだ。その結果、彼らはますます本質を見失って行く。少なくとも、今度の景気対策に限り、そういえるのではないか。

 私はときどき、彼らがテレビなどで<国民>という言葉を使うとき、無性に腹が立って来ることがある。彼らが一括して国民と呼ぶその国民とは、いったい何を指しているのか、そんな思いからである。

 彼がそう呼んでいるのは、ときには彼に票を入れた地元の人々であったり、ときには国民のごく一部である経営者や官僚のことではないか、 と思われることもある。そして少なくとも彼らがそう呼ぶとき、彼自身はまるで国民ではなく、むしろ国民の声をきくもの、という心の奢りをどこかで感ずるか らだ。

 彼自身が本当に国民の一人として、そこから発言されるような言葉をきくことは、滅多にない。むしろ、いつの間にか国民の生活とはまったくかけ離れてしまった、政治家の心をそこに見るような思いがする。

 選挙に金がかかるというのも同じことで、私のはジャーナリズム自体がいまの政治が選挙に金がかかるということを当然のことのように認めているのが不思議なのだが、その金のかかる選挙が、ますます政治家から庶民の感覚を奪っているともいえる。

 その結果、政治家はまるで庶民の医者のような発言を平気でするのではあるまいか。

 もっともこれは、必ずしも政治家だけのことではない。

 いまのテレビを見ていると、日本には本当にいろんな意味で、いろんな医者が大勢いるものだといわざるを得ない。政治に関する医者もいれば、経済に関する医者もいれば、社会に関する医者、教育に関する医者もいる。

 テレビがどこでそれらの医者を見つけて来るのか、彼らが果してどれだけ名医なのかは知らないが、それらに共通していえること、彼らに共 通していえることは、彼らがいつもどこか自己満足のなかで、患者に向って発言している、ということだ。自分の迷いや苦しみのなかで、共に考えようという姿 勢は滅多にない。

 そうした医者の意見が、まったく役に立たないというのではない。

 なかには勿論、有益な意見も数多くある。しかし、私がいいたいのは、にも拘らず、真の意味のコミュニケーションがいまの日本では全く欠如しているのではないか、ということだ。情報はあっても、その情報は意見にくるまれた情報になってしまう。

 私がまことに不思議に思うことは、銀行が不良債権を山ほど抱え、それが景気の回復に大きな影響を与えていることはバブルがはじけた当初からだれしも知っていることなのに、いまになって不良債権の処理が景気回復のための重要な課題として取りあげられていることだ。

 勿論、その処理の方法には難問がいろいろあることは解らないではないが、それがいま問題になるということは、私にはどうにも腑に落ちな い。またその不良債権の内訳も、銀行内部の事情もあろうが、国民の眼にははるかに届かないところにある。企業が隠蔽しているのか、官僚が隠蔽しているの か、政治が隠蔽しているのか、国民の眼には滅多に真実が届くことがないのだ。

 この問題は教育という点から考えると、もっと深刻だ。今日の教育の抱える不安は、全くコミュニケーションの抱える不安以外の何ものでも ない、といってもよい。親と子のコミュニケーション、子供と教師のコミュニケーション、子供同士のコミュニケーション、親と教師のコミュニケーション、そ のすべてのコミュニケーションが行きづまってしまっている、いうのが現状だ。

 何故、行きづまってしまうのか。それは、その各々が、勝手に自分の立場からしかものを見ようとしないからだ。勿論、いまの教育のあり方にもさまざまな問題がある。

 いまの教育は、自然破壊と同じように、子供の自然を破壊する教育でもある。幼少のころから学校と塾とに通う毎日を送る子供たちの精神状 態が、すぐにプツンと切れるとしても、それはむしろ当然のことだといえる。そうした教育に耐えられる子供たちがいるとしても、それはまた別の話だ。子供た ちには、それぞれにいろんな自然があり、その自然に対応することが、本当の教育なのだ。

 だが、それ以上に問題なのは、そんな子供たちの眼に映る大人たちの姿の方だ。それぞれに自分の立場に安住している大人たちの姿自身が、子供たちの反発を呼ぶともいえる。その大人たちは何一つ自分たちの本当の姿を子供たちに示そうとしない。

 コミュニケーションということは、相手を理解するということもさることながら、それ以上に自分というものを相手に正しく示そうとするこ とでもある。だが、いまの大人たちは、自分を示そうと努力することなしに、ただ相手に意見をいうだけだ。ときには理解不能になった子供を前にして、いたず らに不信に陥ることもある。自分を子供に正しく理解してもらえる、という自信もないから、子供を理解する自信もない。自分を改めるということによって、相 手にコミュニケーションを求めるという姿勢はどこにもない。子供たちの大人に対する反発がどこから来るのか、という反省も、そこには微塵もないのだ。

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 私は平成十年という年に期待することとして、平成十年が本当の意味での反省の年になってほしい、と前に書いたことがある。

 景気など回復しなくてもいいから、戦後五十年を本当に振り返って、あらゆる意味でその本質を見極める年になってほしい、と書いた。

 しかし、残念なことに、いままでのところ、政治にしろ、経済にしろ、一向にその本質が究明される気配はない。大蔵省の不祥事や、日銀の 不祥事などあばかれたとしても、それは本質とははるかに遠い次元のことだ。ことの本質は、むしろそうした不祥事に隠蔽された真実のなかにある。大事なこと は、あばかれるということではなくて、自らそれをあばき、自ら真実を示すということだ。

 しかし、そのようなことは、残念なことに、いまのところ全くうかがうことが出来ない。このような不祥事は、恐らく大蔵省だけのはずはな く、その他の省庁も多々あるはずであるが、だれもそれを追及するものもないし、また各省庁が、それを自ら改めようとしている気配も、少なくとも私たちのと ころには全く伝わって来ない。

 政治家にしても同じことで、相変らず職務権限とやらの上に安住していて、道義的責任はあったとしても、法的責任がなければそれでよし、といった考えの上に安住している、としか思えない。

 しかしながら、真に政・官・財の癒着を正そうと思うならば、それは法的責任においてではなく、道義的責任において行う以外には不可能の はずである。政治家が守らなければならないのは、法的責任ではなく、道義的責任である。自らの身を守るのではなく、自らの身を削って、それを守らなけれ ば、とても政治に対する信頼は回復出来ない。そして、政治に対する国民の信頼が回復しない限り、今度の不景気もまた回復しない、ということを、いまこそ政 治家は肝に命じておくべきなのだ。

 これは、勿論、政・官・財の財についてもいえる。財もまた、この癒着のなかで、さまざまの真実を隠蔽して来たはずだ。だがいまは、自らその真実を国民の前にさらすべきだと思う。

 いまは大企業も銀行も、かつてのように国民の信頼を得ているわけではない。いや、むしろ、政・官同様に不信をもたれているといってもよい。いま、各企業が本当に裸になって、その真実を国民の前にさらすことこそ、日本の経済が再び再生する唯一の道なのだ。

 今日の日本の不安は、将来に対する不安もさることながら、不信による不安だ。

 国民はいまの株価も信用しないし、いまの地価も信用しない。信用するに足る真実が示されないからだ。その真実を示すには、勿論、多大の苦痛を伴うだろう。しかし、その苦痛に耐えるのは、政治家や、役人や、企業だけではない。国民なのだ。

 それはまた、豊かさに踊らされた日本の国民にとっては、またよき試練でもある。豊かさがまた、決して最高の価値ではないことを知る、よき機会でもあるわけだ。

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<医者よ、自分で自分を、癒すがよい>

 これはドフトエフスキーの言葉である。いかにもドフトエフスキーらしいシリカルな言葉だ。

 しかし、この言葉ほど、いまの日本の現状に当てはまる言葉はないと思う。

 いまの日本が心がけねばならないことは、あらゆる分野で、自分で自分を癒すことだ。自分で自分を癒す姿勢がなければ、人を説得すること は出来ない。子供に対する親然り、生徒に対する先生然り、企業家また然り、政治家また然りである。他人をただすより先に、自分を癒すことだ。まず、よき親 になり、よき先生になることだ。政治家もまた然りだ。

 かりに、今度の参院選で自民党が過半数を占めたとしても、それによって国民の代表だと思ったりすれば、それは大間違いだ。

 もし、選挙で50%近くの棄権があったとすれば、その棄権は、政治に対する無関心ではなく、政治に対する絶望なのだ。その50%の絶望を抱えて出発する政治が、やらねばならぬ第一のことは、それらの絶望した国民の信用を回復することだ。

 自分を国民の代表だと思うのではなく、国民の代表でないかも知れぬ、という謙虚な心が、かえって国民のことを真に考える機会になるかも知れぬ。国民の代表でないからこそ、国民が何を考えているかを、もう一度考えるようになるかも知れぬ。

 そして、それが畢竟、政治が政治自身を癒すことにもなるのである。そして、その姿勢がないところに、真実もまた現れることはないのである。

1998年7月