今日はお忙しいなか、故篠原省三、筆名田畑麦彦の見送りにご参列いただき、ありがとうございます。
昨日の通夜が仏教でいう初七日にあたりました。
リウマチ発症は平成4年ですから、16年前になりますが、病院を変えて
9年間慢性間接リウマチの治療をしていた病院で、6月6日午後11時29分、間質性肺炎で旅立っていきました。入院からわずか11日目でした。
生前は大変個性的な生き方をしておりましたので、ご兄弟を始めいろいろな方に、さぞご迷惑をかけてしまった事と、お詫びとお礼を申し上げます。
入院後3日目、人口呼吸器をつける前日でした。
酸素マスクの中から「僕はどうしてこんな業病にかかるんだろう。」と私に問いかけてきました。とっさに業病の意味がわからず「業病って?。」と聞き返しました。「まず小児麻痺だろ、次はリウマチだろ・・・治らない病気ばかりじゃないか。」私は返事が出来ませんでした。
篠原の生き方の原点は、3歳のときにかかった小児麻痺だったように思います。左足が踵を含め変形していて矯正靴を履いていました。
唯一未完成になった小説の題名は「肉」でした。自分の意思では思うようにならない変形した肉の塊がテーマだと、私に説明してくれた記憶がおぼろげにあります。
最初の小説「祭壇」の最後の一行が、「最後の記憶だ。僕の頭にはヴァイオリンの固い、冷たい感触があった。」で終っています。現実の田畑麦彦は「最後の記憶だ。僕の頭には人工呼吸器の固い、冷たい感触があった。」なんでしょうか。
銀のスプーンをくわえて生まれてきたような篠原が、大人になってだんだんささくれたような生き方をして来たように私に見えるのは、本人次第ではどうにもならない業病のせいなのでしょうか?。
生まれ変わりがあるならば、来世では健康な肉体で天寿をまっとうしてほしいと思うし、そしてお互い人生の重荷を背負う前に出会いたいものと願っております。
篠原は篠原家とご自分の兄弟の方々が大好きで、篠原の誇りでもありました。
篠原家の皆様と可愛い娘の響子さん、孫の桃子さん、お友達の方々に見送られて旅立てる事を喜んでいると思っております。
だだ篠原が犬可愛がりにしていたシーズー犬のマルテが同席できない事が残念だと思っているかもしれません。
大変寂しがりやで、一人でいることが我慢できない人でした。
シニアカーで出掛けられないので雨が嫌いでした。
こんなに晴れた今日のお別れに、皆様おいでいただきましたこと、心から重ねて御礼申し上げます。


平成20年6月13日

故篠原省三の妻淑江の弔文を一部修正の上、掲載しています。